清野村(読み)せいのむら

日本歴史地名大系 「清野村」の解説

清野村
せいのむら

[現在地名]山崎町清野

揖保いぼ川の中流右岸に位置し、西は与位よい村。中世神戸かんべ(神戸郷)に含まれ、勢野・瀬位野などと記された。元亨二年(一三二二)一一月六日の安保末真田畠譲状(伊和神社文書)に、重弘しげひろ名内の畠一段の在所として「勢野イサコフチ南ノ下テ」、栗林一段の在所として「勢野イサコフチハタ」がみえ、伊和いわ神社(現一宮町)の大祝とみられる安保末真がこれら重弘名内の重代相伝の私領を四男又四郎に譲与している。同日、末真は次男大夫公にも重弘名の所領を譲ったが、このなかに「三渡森ノ東ヨリ」の畠一段があり(「安保末真田畠等譲状」同文書)、現在の清野には小字名三渡みわたりがある。正中二年(一三二五)一二月一九日には安保敦恒らが「勢野嶋神」にある畠林を二貫八〇〇文で高井又太郎へ売却している(「安保敦恒父子畠林売券」同文書)

清野村
きよのむら

[現在地名]長野市松代町清野

松代町の西南にあり、南は鞍骨くらぼね城が続き、西は岩野いわの村、北に広がる清野田圃の向うには千曲川が流れ、更級さらしな東福寺とうふくじ村や杵渕きねぶち村がある。

「高白斎記」の天文二二年(一五五三)に「清野左近太夫」の名がみえる。清野氏は村上氏の支族で応仁年中(一四六七―六九)村上国寿軒の時、清野に移り、その子徳寿軒が清野氏を称するに至ったという(松代町史)。また下諏訪秋宮造宮帳の天正六年(一五七八)には、「清野領」があり、そこで一〇貫文の寄進未納のあったことがみえ、翌七年正月には下諏訪春宮造宮帳でも「正物壱貫七百文 長窪之郷代官清野甚五郎番匠平右ヱ門尉」とあるところから、この頃より諏訪下社と関係の深かったことが知られる。

清野村
せいのむら

[現在地名]京ヶ瀬村清野

東は川前かわまえ村、西は寺社新じしやしん村。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では堀越組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高四一石七斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)によれば水原組に属し、村高は五〇石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android