淵江郷(読み)ふちえごう

日本歴史地名大系 「淵江郷」の解説

淵江郷
ふちえごう

東京低地北端、毛長けなが川・中川・隅田川に囲まれた地域で、現足立区北西端を占めた舎人とねり郷域を除く足立区域に比定される中世の郷。文永一〇年(一二七三)と推定される閏五月二一日の頓宮忠氏書状(蓬左文庫所蔵金沢文庫本斉民要術巻八裏文書)によると、北条政村の死去に伴い藤原忠氏の使者として遣わされた者に淵江員平がいる。系譜は不明ながら淵江郷を本貫とした武士と推定される。あるいは後述する足立氏一族で淵江を名字とした者かもしれない。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状および同日の上杉朝宗施行状(いずれも黄梅院文書)に武蔵国足立郡「淵江郷石塚村」がみえ、足立大炊助跡の当郷は足立郡殖竹うえたけ(現埼玉県さいたま市)地頭職・同郡河田かわた(現同県桶川市)領家職とともに鎌倉円覚寺黄梅おうばい院に寄進された。現兵庫県青垣あおがき町足立家伝来の「足立系図」には、源頼朝から足立郡郷支配を認知され鎌倉幕府の公文所寄人に列した足立遠元の第三子元重に「淵江(藤)内」の注記がある。

淵江郷
ふちえごう

綾瀬川流域の沖積地に位置し、現草加市南端から東京都足立区にかけての地域に比定される。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状によれば、相模国鎌倉郡小坪こつぼ(現神奈川県逗子市)の残り半分の替地として「淵江郷石塚村等内足立大炊助跡」などが鎌倉円覚寺塔頭黄梅おうばい院に寄進された。同日関東管領上杉朝宗は武蔵国守護代千坂越前守に同所を黄梅院雑掌に打渡すことを命じている(上杉朝宗施行状)。ただし享徳六年(康正三年、一四五七)四月一三日の黄梅院領知行注文(以上、黄梅院文書)には「淵江郷石塚村」はみえないので、それ以前に黄梅院の支配を離れていた。「石塚村」の比定地は不詳。年未詳一一月二八日の足利政氏書状写(喜連川家文書案)によれば、小宮山左衛門尉なる者が淵江郷に対してしばしば違乱を行い、その処理が太田美濃入道に命じられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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