深溝村(読み)ふこうずむら

日本歴史地名大系 「深溝村」の解説

深溝村
ふこうずむら

[現在地名]幸田町深溝

額田郡の最南端に位置し、村域北東部と南西部は山地で、中央部は約五〇〇メートル幅の平地が貫く。集落も寛永一〇年(一六三三)三州額田郡深溝村地改帳(深溝区有)では、三五字に居屋敷がある。市場いちば二〇軒、田中たなかさと天王山てんのうやまに各一四軒、屋敷やしき向野むかいのに各一二軒が集中するなど村全体で一七五軒があった。

東は宝飯ほい西迫にしはざま村・竹谷たけのや村・拾石ひろいし(現蒲郡市)の三ヵ村と山地で、西は鹿川しかかわ(現幡豆郡幡豆町)逆川さかさがわ村と山地で、さらに上六栗かみむつぐり村とは山と耕地で接する。南は宝飯鹿島かしま村・一色いつしき村・平地ひらち(現蒲郡市)と山地で、北は芦谷あしのや村に耕地と山で接する。交通の要地で「家忠日記」天正七年(一五七九)一月二九日条に「家康吉良よりふかうす御帰候。宇谷にて御酒むかい申候」と記される道は吉良きら道。同六年二月一〇日条に「深溝へ信康参れ候」とある道は岡崎―深溝道。同八年正月三日条に「浜松より吉田へ礼ニより候て深溝に日かけニ越候」とあるのは平坂へいさか道。同一二年二月二一日条に「中嶋へこし候、徳政ニふる舞候」とあるのははま道。

深溝村
ふかみぞむら

[現在地名]鈴鹿市深溝町・三畑みはた町・追分おいわけ

広瀬ひろせ村の北方、下大久保しもくぼ村の西方扇状台地の上に位置する。自然用水は深く掘る必要があり、深溝の地名もこれに由来する。「神鳳鈔」に「深溝御厨十三丁」とある。文明五年(一四七三)この神宮領が、近くの川崎かわさき(現亀山市)みね城主に押領されたことは「一当国鈴鹿郡深溝領之内、加地子分毎年拾石事、自峯越前方、雖有号買得、実者当四禰宜守秀神主永被知行者也、更不可成綺、仍状如件 文明五年七月十三日 一禰宜氏経判」(内宮引付)とあることによってわかる。文禄三年(一五九四)伊勢検地終了直後の九月二一日、豊臣秀吉は当時遠州掛川かけがわの城主山内一豊に、深溝分六八八・五六石と「下大窪」のうち三一一・四四石、計一千石を与えている(山内家資料「一豊公記」)。しかしその知行目録に、下大窪(下大久保)は村としては含まれていず、該当の高は北畑きたばた村と伊船いふな村のうちから出ている。

深溝村
ふかみぞむら

[現在地名]新旭町深溝

琵琶湖畔に面し、西は針江はりえ村。低湿地にあるため、琵琶湖が増水するとすぐ水損を受けるため、湖辺の田の中に延長二キロにも及ぶ大堤が築かれている。天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(饗庭文書)に深溝とみえる。同一一年八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に深溝とあり、高六四六石余。寛永石高帳に高一千二六六石余とあり、大溝藩領一千五〇石余・旗本佐藤領二一五石余。慶安高辻帳では大溝藩領は田方五八〇石余・畑方二六石余、永荒四四三石余、佐藤領は田方二一〇石余・畑方五石余。元禄郷帳で村高は一千三〇〇石余となり、大溝藩領がその分ふえ、以後幕末まで続く。安永八年(一七七九)には二八人の船大工がいた(「船大工仲間定・名印帳」竹中文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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