海路口村(読み)うじぐちむら

日本歴史地名大系 「海路口村」の解説

海路口村
うじぐちむら

[現在地名]天明町海路口

西は有明海に面し、北は畠口はたぐち(現飽田町)、南は緑川河口、東は銭塘ぜんども村・下沖しもおき村・弐拾町にじつちよう村に接する。奥古閑おくこが村などの地先の埋立地で、時代の古いものは奥古閑村に組込まれたが、近世後期に開発された新地は、明治になって海路口村にまとめられた。文化八年(一八一一)宇土藩が救恤資金を得るため築造した鰥寡開かんかびらき五町九反余、文政元年(一八一八)村営による奥古閑開六二町五反余、同年益城ましき郡による益城開三二町、文政九年藩の櫨方(のち採蝋司局)出資により築造された採蝋司開さいろうしびらき一一町五反余、天保一二年(一八四一)藩主細川斉護が藩校時習じしゆう館の経営費を得る目的で御側金一万両をもって築造した学料開がくりようびらき九六町余(一〇三町六反余ともいう)、文久元年(一八六一)銭塘本庄・田迎・横手の四手永と家老長岡刑部とにより零落民救済、鯨油の費用を得る目的で築造された浦田開うらたびらき一一二町六反余があり、当時長岡刑部は熊本城まるに居住していたので、浦田開のうち長岡家分を二ノ丸新地、四手永分は御郡新地ともいう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報