浦田(読み)うらだ

日本歴史地名大系 「浦田」の解説

浦田
うらだ

[現在地名]有馬町浦田

南有馬村の東部北側、大江おおえの北に位置し、東に開いた入江がある。はら城の三の丸が当地にあり、西に陣場じんば地名が残る。一五七六年(天正四年)有馬に滞在していたイエズス会のコエリヨ神父がウラタから乗船して口之津くちのつ(現口之津町)に向かおうとしたところ、オオエの人々とともに受洗を希望し、それが果されるまでは通過させないという決意であったので、村に仏僧をとどめないこと、および全員がキリシタンになることを条件として授洗したという(フロイス「日本史」)

浦田
うらだ

現在の好間町にあったと思われる中世地名。文永六年(一二六九)一二月一二日の関東下知状(飯野八幡宮文書、以下同文書)によれば「好島浦田内、公田数拾町」が荒廃したため、地頭好島泰隆が年貢未進し、預所伊賀光泰は好島東庄の預所大須賀通信の例にならって新田として扱うよう訴え、幕府は光泰の理を認めている。正和三年(一三一四)には浦田で検注が行われており、田数二〇町八反三合、大折寺・石仏・神宮寺・地蔵田・供僧田・灯油田・新寺湯免・執行田の除田計六町二合、地頭・名主飯田の人給田計五町八反六合六歩、定田八町八反四合三〇歩のうち損田を引いた得田五町六反四合一二歩内で、年貢に帖絹四疋が含まれている(正和四年二月一五日好島庄浦田検注目録注進状案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報