横手(読み)ヨコテ

デジタル大辞泉 「横手」の意味・読み・例文・類語

よこ‐て【横手】

横に当たる方向。わき。「寺の横手にある堂」「横手から入る」
旗の上部のに通すための棒。
刀身の先端、切っ先との境をなす鎬地しのぎじから刃にかけての横の線。横手筋。
[類語]わき片脇傍ら片方かたえとなり横合いそば近間最寄り近く付近近辺近傍界隈かいわい近回りそのへん四隣しりん隣組向こう三軒両隣りょうどなり

よこて【横手】[地名]

秋田県南東部の市。横手盆地にある。横手縞の産地。旧正月に、かまくら梵天ぼんてんの行事がある。平成17年(2005)10月に周辺7町村と合併。人口9.8万(2010)。

よこ‐で【横手】

感じ入って両方の手のひらを打ち合わせること。

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精選版 日本国語大辞典 「横手」の意味・読み・例文・類語

よこ‐て【横手】

[1] 〘名〙
① 横の方面。横の方。側面。
※夫木(1310頃)一八「ゆふてぐらてにとりかざるからかみの三わのよこてにすすめつるかな〈隆源〉」
※草枕(1906)〈夏目漱石〉三「和尚の室は廊下を鍵の手に曲って、本堂の横手にある」
② 乳付(ちづけ)の幟(のぼり)の上の乳(ち)に通すための棒。また、手長旗の横上(よこがみ)
※今川大双紙(15C前)馬に付て式法之事「よこて一尺の鞭の事。有口伝。執つか以上三寸也」
[2] 秋田県南東部の地名。横手盆地の東縁にある。鎌倉時代に城下町として興り、江戸初期は小野寺氏三万石の城下町として発展。のち、秋田藩城代戸村氏の支配を受けた。横手木綿・木工品を生産。かまくらなどの年中行事で知られる。昭和二六年(一九五一)市制。

よこ‐で【横手】

〘名〙
① 感じ入って、両のてのひらを横にして打ち合わせること。
※俳諧・西鶴大句数(1677)六「月すみよしの一首感ずる 朝夕に見てもよこ手を花の波」
② 横にしたてのひら。
④ おせじをいうこと。
※玉塵抄(1563)五「臣下大小となくつかいとして諸国の伯主の方えいて口に油をぬって王のよこ手をとらるることを云ぞ」

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改訂新版 世界大百科事典 「横手」の意味・わかりやすい解説

横手[市] (よこて)

秋田県南東部の市。2005年10月旧横手市と大森(おおもり),雄物川(おものがわ),十文字(じゆうもんじ),平鹿(ひらか),増田(ますだ)の5町および山内(さんない),大雄(たいゆう)の2村が合体して成立した。人口9万8367(2010)。

横手市北西端の旧町。旧平鹿郡所属。人口8103(2000)。横手盆地西部,雄物川西岸に位置し,西部は笹森丘陵,東部は雄物川の沖積地からなる。中心の大森には中世に小野寺氏一族が拠った大森城跡があり,近世は雄物川舟運の河岸場として栄えた。また西の由利郡芋川流域への交通の要地でもあり,定期市も開かれていた。東部の沖積地は近世初期五ヵ村堰(山城堰)によって開発された新田で,米作が行われ,畜産やリンゴ,タバコ,ナメコシイタケなどの栽培も盛ん。積雪が2mをこえる豪雪地で,1971年には過疎地域に指定され,西部の山間集落では集落移転も実施された。保呂羽山山頂には式内社波宇志別(はうしわけ)神社があり,11月7日に行われる霜月神楽は重要無形民俗文化財に指定されている。

横手市西部の旧町。旧平鹿郡所属。人口1万1300(2000)。横手盆地南西部にあり,町の西半は出羽山地,東半は横手盆地にかかり,中央を雄物川が北流する。中心の沼館は古くから開け,後三年の役における清原家衡の本拠〈沼柵〉を沼館にあてる説がある。中世後期には小野寺氏の支城が置かれた。沼館に南接する今宿は近世に雄物川水運の河港,市場町として栄えた。1918年横荘(おうしよう)鉄道(のち羽後交通横荘線)の横手~沼館間が開通,沼館は鉄道交通の要地として栄え,その後鉄道は大森まで延長されたが,71年には廃止され,以後市街地は国道107号線沿いの造山方向へ拡大している。米作を中心にリンゴ,スイカの栽培や養豚も盛ん。1965年低開発地域工業開発地域に指定されたが,豪雪地でもあり,進出企業は小規模なものが多い。

横手市東部の旧村。旧平鹿郡所属。人口4659(2000)。東は岩手県,西は旧横手市に接し,横手川の上流域を占める。真昼山地の西斜面にあたる山村で,村域の90%が山林からなり,集落は河岸段丘上に分布する。近世は横手山内郷と呼ばれ,境を接する盛岡藩領との間に小松川番所など八つの番所が置かれていた。中心の相野々(あいのの)は横手川と松川,黒沢川,武道川の合流点にあたり,雄物川流域と北上川流域を結ぶ平和(ひらわ)街道(国道107号線)が通じる。明治初期まで旧盛岡藩領とは白木峠で結ばれていたが,1881年に平和街道が開かれ,1924年にはこの街道沿いに国鉄(現JR)北上線が開通し交通の便がよくなった。急峻な山地のため耕地率は4%にすぎず,古くから出稼ぎの村として知られる。特に山内杜氏(とうじ)として酒造出稼ぎが多く,県内はもとより青森,千葉など全国各地に出ている。米作のほか,近年はタバコの栽培が盛ん。相野々ダムはアースダムとしては日本有数の規模をもつ。

横手市南西部の旧町。旧平鹿郡所属。人口1万4517(2000)。横手盆地の南部を占め,雄物川の沖積低地からなる。町名は中心集落の十文字新田が近世,羽州・増田両街道の交差点に位置する十字路村として発達したことに由来する。1905年に奥羽本線が通じ,十文字駅が設置されてから県南交通の要所となり,雄物川支流の成瀬川,皆瀬川河谷の集落をも商圏に含む商業の中心地になった。農業は米作が中心で,耕地の大部分を水田が占めるが,ほとんど近世以降,皆瀬川からの取水堰によって開田されたもので,1953年には東北一の規模をもつ皆瀬頭首工が建設され,国営用水路が整備された。サクランボ,リンゴなどの果樹栽培も盛ん。在来工業として製材,酒造業があり,仁井田菅笠は民芸品として知られる。

横手市北部西寄りの旧村。旧平鹿郡所属。人口5864(2000)。横手盆地の中央部,雄物川東岸の肥沃な沖積低地にあり,旧横手市の西に位置する。耕地率が村域の70%に達し,ほとんどが水田で,米の単位面積当り収量が多い。1970年代からはホップやタバコ,ミツバなどの栽培も行われている。東部の田根森地区には泥炭地が多く,切り出された泥炭は〈ネッコ〉と呼ばれ燃料として利用された。

横手市中部の旧町。旧平鹿郡所属。人口1万4941(2000)。横手盆地の南部に位置し,町域の大部分は沖積低地からなる。南東部をJR奥羽本線,国道13号線が,中央を国道107号線が通る。中心の浅舞には中世末期に小野寺氏の支城浅舞城が築かれ,江戸時代には秋田藩の郡奉行所が置かれた。本荘街道が通じ,市場町(近世には九斎市,現在は十二斎市)として栄えた。1918年には横荘鉄道(のち羽後交通横荘線)が開通したが,71年廃止となった。農業が中心で,土地改良基盤整備がすすみ郡内一の米生産量を誇る。醍醐地区では〈平鹿リンゴ〉の名で知られる無袋リンゴ栽培が行われ,浅舞地区では養豚,吉田地区では養鶏が盛ん。清酒醸造,観賞用・食用のコイ養殖も行われている。

横手市南端の旧町。旧平鹿郡所属。人口9099(2000)。横手盆地南東部,雄物川水系の成瀬川,皆瀬川の合流点を中心とする。両川の河谷は近世にはそれぞれ仙台藩領への要路にあたり,谷口集落として発達した増田は交通の要地であり,定期市も立ったが,現在は奥羽本線の駅のある旧十文字町に商業の中心が移っている。東部の山麓一帯はリンゴ栽培が盛んで,無袋の平鹿リンゴで知られる。河谷部のタバコ栽培は県内一の生産量を誇る。古くから清酒,みそ,しょうゆの醸造業が行われ,1965年以降は機械部品,縫製などの工場進出もみられる。真人(まと)公園は桜の名所として名高い。毎年9月14日に行われる花火の打上げが名物。
執筆者:

横手市中北部の旧市で,横手盆地東部にある。1951年市制。人口4万0521(2000)。市域西部は雄物川支流の横手川(旭川)沿いの沖積平野で,水田が広がるが,東部は真昼山地南部に連なる山地,丘陵地である。中心市街の横手は旭川の谷口集落として発達し,江戸時代には右岸の内町(武家町)と左岸の外町(町人町)に分かれ,外町では3・5・8・10の日の十二斎市が開かれ,馬市も開かれた。定期市は明治末年には県公認の常設市場となり,今も朝市が開かれている。羽州街道(国道13号線)と平和・本荘両街道(107号線)の分岐点で,雄物川水運の要所でもあったので,宿場町としても発展,江戸中期以降は県南の中心都市としての基礎が確立した。現在,分岐点の南方に秋田自動車道のインターチェンジがある。1905-24年に奥羽本線,私鉄横荘線(1971廃止),国鉄横黒線(JR北上線)が開通,県南の鉄道交通の要となり,県内では秋田市に次ぐ商業都市となった。主要商店街は四日町,大町,田中町,横手駅前などであったが,近年の大型スーパーマーケットの駅前進出は,買物客の流れを変えた。旧平鹿郡全域と旧仙北郡南東部,岩手県西和賀町の旧湯田町を商圏とする。製造業は輸送用機器がのびて市の製造品出荷額の80%(1995)を占め,ほかに木材,食料品,土石,電機工業がある。在来工業に近世以降,名のある横手木綿や染物がある。近年は観光に力を注ぎ,2月中旬の〈かまくら〉は全国的に有名。享保(1716-36)ころに餓死者を弔うために始まったといわれる送り盆祭や横手公園の菊人形祭も観光客でにぎわう。金沢(かねざわ)に後三年の役で清原氏が源義家を迎え撃った金沢柵がある。
執筆者:

出羽国平鹿郡の城下町。北部の余目(あまるめ)は《和名抄》の平鹿郡余部郷の地と推定される。鎌倉時代に地頭平賀氏がこの地にあったが,以後室町時代にかけて領主はしばしば交代した。室町後期,南から小野寺氏の勢力が伸びてこの地におよび,朝倉山に横手城を築き城下を整備した。1601年(慶長6)佐竹氏が秋田に入部してからは,その家臣が城代となり城に居住し,所預(ところあずかり)と称した。戊辰戦争の際には仙台・新庄両藩の攻撃にあい戦火を浴びた。江戸時代には内町20町,外町12町,家数800軒前後であった。
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日本歴史地名大系 「横手」の解説

横手
よこて

成立 享保一三年 秋田県庁蔵

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