浮津村(読み)うきつむら

日本歴史地名大系 「浮津村」の解説

浮津村
うきつむら

[現在地名]室戸市浮津・浮津一―三番町

室津むろつ川河口より西北奈良師谷ならしだに川河口に至る村で、土佐湾に面する。南東から北にかけては室津村の山地、西北隣はもと村。紀貫之は「土佐日記」によると承平五年(九三五)一月、浦伝いに船で土佐湾を東行、「十二日あめふらず(中略)ならしづよりむろつにきぬ」と、村内の奈良志津ならしづ(現奈良師)の地名を記している。なお「能因歌枕」の記す土佐の名所に「ならしの山」がある。「万葉集」に大和の奈良思ならしの岡が詠まれるため、山も大和とみる説があるが、当地奈良師付近の山と考えてよかろう。

<資料は省略されています>

正安四年(一三〇二)金剛頂こんごうちよう寺の神供田を実検した注進状に増加分を加えて書改めた康永三年(一三四四)閏二月五日付の注進状(「蠧簡集拾遺」所収金剛頂寺文書)に「奈良志津」「奈良志津口」などの地名とともに浮津庄が記される。浮津付近は早くから金剛頂寺の膝下としてその寺領とされた地であるが、同注進状にはほかに「島田庄大田庄・池谷庄・宮原庄」など浮津付近の海岸部と思われる地名を付した荘園名が記されるから、当時は寺領が一円化されず散在的に存在したものかと考えられる。浮津庄に関して他に徴すべき史料はないが、建治三年(一二七七)四月一五日付の浮津八王子宮仁王講田に関する下司代生蓮田地宛行状(蠧簡集)が残り、預所・下司代などが記される。

天正一五年(一五八七)の長宗我部地検帳では西寺分(西寺地検帳)に含まれ、浮津村分が一二八筆、奈良師村分が一一二筆、合せて一二町三反余が記されるが、いずれも等級下々の水田や下屋敷・サンハク(山畠)が目立つ。砂がちのやせ地で農耕には適さないが、浜に小舟を引揚げられるので早くから漁業集落として発展したらしい。

浮津村
うきつむら

[現在地名]大方町浮鞭うきぶち

鞭村の東、吹上ふきあげ川河口左岸に東西に延びる海岸段丘上にある漁村(浦)で、東方川口かわぐち村とはいわ浜で接する。入野いりの郷の一村。「土佐州郡志」は「東界川口船戸、西限田野浦垣瀬川、東西一里、戸三十三、口百四十四」と記すが、西限を田野たのかき(蠣)川とするのは不可解。

村名は天正一八年(一五九〇)入野七郷内地検帳にみえ、検地面積一一町余。屋敷数一(居屋敷)。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)には「宇木津」浦刀禰がみえる。江戸時代には本田高四石五斗(元禄郷帳)。天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によれば水主数三四、船数六(すべて廻船)。寛保郷帳によると家数一六〇(一六の誤りか)、人数一六〇、馬二、船一、塩浜一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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