紀貫之(読み)きのつらゆき

精選版 日本国語大辞典 「紀貫之」の意味・読み・例文・類語

き‐の‐つらゆき【紀貫之】

平安前期の歌人、歌学者。三十六歌仙の一人。加賀介、土佐守などを歴任、木工権頭(もくのごんのかみ)に至る。醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆。歌風は理知的で技巧にすぐれ、心と詞の調和、花実兼備を説いて古今調をつくりだした。漢詩文の素養が深く、「土左日記」は仮名文日記文学の先駆とされる。著はほかに撰集「新撰和歌集」、家集「貫之集」など。天慶八年(九四五)没か。

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デジタル大辞泉 「紀貫之」の意味・読み・例文・類語

き‐の‐つらゆき【紀貫之】

[870ころ~945ころ]平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。大内記土佐守とさのかみなどを歴任。紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみね古今集の撰にあたり、仮名序を書いた。著「土佐日記」、家集「貫之集」など。
大岡信の評論。昭和46年(1971)刊。「土左日記」の著者であるの、フィクション作家としての才能をひもとく。第23回読売文学賞評論・伝記賞受賞。

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改訂新版 世界大百科事典 「紀貫之」の意味・わかりやすい解説

紀貫之 (きのつらゆき)
生没年:868ころ-945(貞観10ころ-天慶8)

平安前期の歌人,文学者,官人。貫之5代の祖,贈右大臣船守(ふなもり)は,桓武天皇の革新政策をたすけて平安遷都に力を尽くした偉材であったし,祖父本道の従弟有常は在原業平とともに文徳天皇第1皇子惟喬(これたか)親王を擁して,北家藤原氏と皇位継承権を争ったほどの輝かしい歴史をもっていた紀氏であったが,貫之の時代には完全に摂関藤原氏の勢力に圧倒されて,政界の表面から影をひそめていた。おそらく父望行(もちゆき)を早く失った貫之は,有常あたりから家系の誇りを教えられて成長した。たまたま宇多天皇が菅原道真を重く用いて摂関抑圧の方針を打ち出し,和歌を奨励して朝威の振興を計ろうとしたとき,青年貫之は時流に乗じて家運の再興を夢見たであろう。やがて897年(寛平9)に宇多天皇が退位し,901年(延喜1)に道真が失脚するとその望みも消えたが,醍醐天皇が《古今和歌集》の撰進を命じ,従兄の友則とともに撰者となるにおよんで,和歌の世界に名を挙げる新たな希望が貫之の胸に湧いた。和漢の教養と楽舞の才能を身につけ,誠実努力の人であった貫之は,《古今集》の編纂を通じて歌壇の第一人者の地位にのぼり詰めた。

 しかし官界にあってはまったくの不遇で,延喜年間(901-923)の末年に至っても,相変わらず内御書所預(うちのおんふみのところのあずかり)として,図書の整理や歌集の編纂を本務とし,大内記・美濃介・左京亮などの官職は,俸給を増すための兼官に過ぎなかったから,位階の昇進は極端に遅れていた。930年(延長8)に土佐守に任じられたことが行政官吏として実務に就いた最初であったかもしれない。それだけに貫之は清廉謹直に国司としての職責を果たしたが,その間,醍醐天皇をはじめ右大臣藤原定方,権中納言藤原兼輔など,貫之の後ろだてとなっていた有力者が相ついでこの世を去り,935年(承平5)任終わって帰京したとき,政官界において貫之は孤立無援であった。当時の大家族を扶養するためには権力者に接近して官職を求めねばならない。国司として常識となっていた不正の蓄財をいっさい避けていた貫之としては,和歌の学識をもって権力者の知己を求めるよりほかに道はない。そこで創作したのが《土佐日記》である。和歌初学入門の年少者のためにはおもしろくてためになる手引きの歌論書,また当時の国司の腐敗堕落や交通業者の不正手段を諧謔を交えて痛烈に風刺する一方,貫之自身の精励さや清貧を印象づけ,ひそかに亡児を悲嘆し老境を嘆き父祖の栄光を偲ぶ日本最初の文学作品としての日記がこれであった。やがてその効果は現れて太政大臣藤原忠平父子の庇護を受け943年(天慶6)推定76歳にしてようやく従五位上に昇進したが,従五位下に叙せられてからすでに26年を経ていた。貫之がいかに不遇であったかが知られよう。945年9月,木工権頭(もくのごんのかみ)をもって卒した。その作品は上記の他に《新撰和歌》《自撰家集》《万葉五巻抄》《大堰川行幸和歌序》《貫之宅歌合》などがあり,勅撰に入集する和歌451首,他撰本《貫之集》その他を併せて総数1069首の和歌が残されている。

 貫之にはその誠実な人柄から,伝説はきわめて少ない。勅許を得て和泉の国に創建した船守神社から帰京の途中,蟻通し明神の祟りを受けて馬がたおれたときに和歌を奉納した逸話(《袋草紙》,謡曲《蟻通》など),藤原公任具平親王と人麻呂・貫之の優劣を論争したこと(《袋草紙》),順徳院が《八雲御抄》に〈貫之さしもなしなどいふ事少々聞ゆ。歌の魔の第一也〉と記していること,近代になって桂園派の観念的な歌風を打破しようとした正岡子規が,和歌の即興性を重んじた貫之を理解しえずして《歌よみに与ふる書》で〈貫之は下手な歌よみにて,古今集はくだらぬ集に有之候〉と極論したように,歌人としての貫之の評価にかかわるものばかりであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀貫之」の意味・わかりやすい解説

紀貫之
きのつらゆき
(871?―946)

平安前期の歌人。『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)として有名。また、『土佐日記』の作者、『新撰和歌』の編者でもある。三十六歌仙の一人。父は望行。宮中で位記(いき)などを書く内記の職などを経て、40歳代なかばでようやく従(じゅ)五位下となり、以後、930年(延長8)に土佐守(とさのかみ)に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わった。官人としてはそのように恵まれなかったものの、歌人としては華やかな存在であった。

 早く892年(寛平4)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目だつ存在ではなかった。『古今集』(905成立)撰者に任じられ、従兄(いとこ)友則(とものり)の死にあって指導的な役割を果たすこととなり、『古今集』の性格を事実上決定づける。集中第1位の102首を入れ、画期的な仮名序をものして、名実ともに歌界の第一人者となる。『古今集』以後の活躍は目覚ましく、そのころからことに盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐(だいご)宮廷関係の下命に応じて多数を詠作した。907年(延喜7)の宇多(うだ)法皇の大井川御幸には9題9首の歌と序文を献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠する。この間、藤原兼輔(かねすけ)・定方(さだかた)の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めている。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇すでに崩じ、帰京後序を付して手元にとどめた。『土佐日記』は土佐からの帰京の旅から生まれた作品である。以後はもっぱら藤原権門の下命によって屏風歌の詠作に従って晩年に至る。

 貫之の最大の功績は、『古今集』撰進を通じて国風文化の推進・確立を果たしたことである。漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた。『古今集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』でいっそう確かなものになっている。もっとも、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。さらに注目すべきは、『土佐日記』により初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせたことである。

[菊地靖彦]

 桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける

『萩谷朴校註『日本古典全書 新訂土佐日記――紀貫之全集』(1969・朝日新聞社)』『大岡信著『日本詩人選7 紀貫之』(1971・筑摩書房)』『村瀬敏夫著『紀貫之伝の研究』(1981・桜楓社)』


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百科事典マイペディア 「紀貫之」の意味・わかりやすい解説

紀貫之【きのつらゆき】

平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。武内宿禰を祖とする名門紀氏は貫之の時代には藤原氏に押されて衰えており,官人としての栄達の道は困難であった。しかし一族やその周辺には,従兄弟紀友則紀長谷雄,紀有常,惟喬親王在原業平などの有力歌人や漢詩文で名をなしたものがおり,のちに歌壇の第一人者となる貫之の出発に大きく影響したと思われる。貫之の名は893年以前の《寛平御時后宮歌合》に登場しており,若くして高い評価を得ていたことが窺われる。905年には友則らとともに《古今和歌集》を撰進した。これを通じて貫之は歌壇の第一人者となり,その執筆といわれる〈仮名序〉は歌論,歌学の出発点として後代にも多大の影響を与えている。930年に土佐守に任ぜられ,任地で《新撰和歌集》を編纂した。935年に帰京,《土佐日記》を書いて仮名散文,日記文学に新しい道を開いた。《古今和歌集》以下の勅撰集に約450首入集。没後編纂された家集《貫之集》がある。
→関連項目凡河内躬恒高野切古今和歌集仮名序寸松庵色紙鳥養牧六歌仙和漢朗詠集

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朝日日本歴史人物事典 「紀貫之」の解説

紀貫之

没年:天慶9(946)
生年:生年不詳
平安時代の歌人,三十六歌仙のひとり。望行の子。紀氏は本来武人の家系だが,貫之のころには多くの歌人を輩出,藤原敏行,兼覧王などが知られている。御書所預,内膳典膳,少内記,大内記,美濃介,右京亮,玄蕃頭,木工権頭などを歴任。従五位上。寛平年間(889~98)の是貞親王家歌合や寛平御時后宮歌合に出詠して歌界にデビュー。延喜5(905)年醍醐天皇の命を受け,友則らと共に最初の勅撰集『古今和歌集』を編纂するにおよんで,一躍歌壇的地位を築いた。この編纂作業では,わが国初の本格的歌論書ともいうべき仮名序を自ら草するなど,終始リーダーシップを発揮。また,集中第1位の102首もの自詠歌を選入して,理知的,分析的な古今歌風の形成に大きく関与した。このころから歌人としての声望はとみに高まり,以後,多くの権門貴紳から屏風歌制作の注文が相次いだ。屏風歌の数の多さは当時の一流歌人としての証であり,これらは晩年自ら編んだ『貫之集』の前半部に500首を超える一大屏風歌歌群となって残されている。 延長8(930)年,土佐守に任ぜられたが,赴任直前に醍醐天皇より命が下り,再び歌集を編むこととなった。『新撰和歌』4巻である。ただし,これは任地で編纂中に天皇が崩じたため,惜しくも勅撰集とはならなかった。ほかにも宇多法皇,藤原兼輔など貫之を主に支えていた人々が次々と他界し失意の内に任を終えた貫之は,承平4(934)年帰京の途に就く。この折の船旅を一行のさる女性に仮託して綴ったのが『土佐日記』であり,仮名で記された日記文学の創始として,のちの女流文学隆盛を招来するきっかけとなった。 貫之の業績は韻文,散文両分野にわたり真に多大なものがあるが,ことに国風文化の台頭期にあって,たえず文学上の新しい方法を模索し,開拓していったその精神は,大いに讃えられてよかろう。代表的詠歌に「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」などがある。<参考文献>大岡信『紀貫之』,村瀬敏夫『紀貫之伝の研究』,長谷川政春『紀貫之論』

(田中登)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀貫之」の意味・わかりやすい解説

紀貫之
きのつらゆき

[生]貞観10(868)頃
[没]天慶8(945)/天慶9(946)
平安時代前期の歌人。『土佐日記』の作者。三十六歌仙の一人。望行 (もちゆき) の子。御書所預,大内記,加賀介,土佐守などを経て従五位上,木工権頭 (もくのごんのかみ) にいたる。若くして『寛平御時后宮歌合』 (889?) ,『是貞親王家歌合』 (893) に列し,延喜5 (905) 年『古今和歌集』の撰者に任じられ,仮名序を執筆。同7年宇多院大堰川 (おおいがわ) 行幸に供奉して和歌を詠み,序を執筆,同 13年『亭子院歌合』『内裏菊合 (だいりきくあわせ) 』に出詠。延長8 (930) 年土佐守として赴任し『新撰和歌』を撰。承平5 (935) 年帰京,旅中の体験を『土佐日記』に記した。家集『貫之集』がある。勅撰集入撰歌は『古今集』以下 452首に及ぶ。書は,藤原定家が臨書した貫之自筆本『土佐日記』末尾2ページが残る。その他『自家集切』『桂本万葉集』『高野切』『寸松庵色紙』などがその書にあてられている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀貫之」の解説

紀貫之
きのつらゆき

?~945

平安前・中期の歌人・日記文学作者。三十六歌仙の1人。望行(もちゆき)の子。宮廷文芸としての和歌の復興の気運のなかで歌壇に登場。905年(延喜5)紀友則・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)とともに「古今集」の撰者をつとめ,優れた歌論でもある仮名序を記した。「古今集」に最多の102首をのせるほか,勅撰集入集は450首以上。歌合(うたあわせ)・屏風歌といった公的な詠進歌が多く,歌壇の第一人者として認められていた。930年(延長8)土佐守として赴任。その帰途をつづったのが「土佐日記」で,日記文学のみならず仮名文学全般の発展に多大の影響を与えた。家集「貫之集」。その他の作品に「大井川行幸和歌」の仮名序,「新撰和歌」の撰定と真名(まな)序など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀貫之」の解説

紀貫之 きの-つらゆき

?-945 平安時代前期-中期の歌人,官吏。
大内記,土佐守などをへて天慶(てんぎょう)8年木工権頭(もくのごんのかみ)。「古今和歌集」編集の中心となり「仮名序」を執筆。おおくの屏風(びょうぶ)歌をつくり,はじめての仮名文学「土佐日記」をかくなど,国風文化の確立におおきな役割をはたした。家集に「貫之集」があり,勅撰集入集452首。三十六歌仙のひとり。天慶8年死去。享年は78歳か79歳といわれる。
【格言など】人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「紀貫之」の解説

紀貫之
きのつらゆき

868?〜945
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で,『古今和歌集』撰者の一人
官位は低く,死んだときも従五位上・木工権頭 (もくのごんのかみ) にすぎなかったが,すぐれた批評眼をもち,すぐれた歌論である「古今和歌集仮名序」,かな文の日記文学の『土佐日記』,「新撰和歌集序」などの著がある。

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世界大百科事典(旧版)内の紀貫之の言及

【伊勢物語】より

…書名の由来も,伊勢(伊勢御(いせのご))の筆作にかかること,〈伊勢〉は〈えせ(似而非)〉に通ずること,巻頭に伊勢斎宮の記事があること,などをそれぞれ根拠に挙げる諸説があったが,なお不明である。作者も上の伊勢の説のほか,在原業平自記説もあり,紀貫之説も近年有力となりつつあるが,これまた特定は困難であろう。内容は諸本により若干の増減があるが,通行の天福本で全125段から成る。…

【古今和歌集】より

…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…

【寸松庵色紙】より

…なお,それ以前には堺の南宗寺にあったという。古筆見(こひつみ)の鑑定では紀貫之筆とするが,《古今集》の撰者の自筆としようとしただけのことで,おそらくは院政時代の書であろう。真勝はこの色紙に,その歌の心をえがいた扇面を添え貼ったが,現在扇面も残っているものは多くない。…

【短歌】より

…時代的に早い在原業平,小野小町,僧正遍昭らのいわゆる六歌仙の歌風は,優美典雅な王朝的豊麗さをたたえた世界であった。そして,紀貫之,紀友則ら選者たちの時代の短歌は,鮮明かつ明確さを求めた表現世界であった。規範性をもって後の時代に広く影響を及ぼしたのは,選者たちの歌風である。…

【土佐日記】より

…平安中期,935年(承平5)ころ成立の作品。作者は紀貫之。934年12月21日,新任の国司島田公鑒に国司の館を明け渡して大津に移った前土佐守紀貫之は,27日大津を出帆し,鹿児崎(かこのさき),浦戸,大湊,奈半(なは),室津,津呂,野根,日和佐(ひわさ),答島(こたじま),土佐泊,多奈川,貝塚,難波,曲(わた),鳥飼,鵜殿,山崎と,船路の泊りを重ね,翌年2月16日ようやく京のわが家へ帰り着いた。…

※「紀貫之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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