浅井庄(読み)あざいのしよう

日本歴史地名大系 「浅井庄」の解説

浅井庄
あざいのしよう

小谷おだに山の南部一帯に広がっていたと推定される。寛治八年(一〇九四)一二月一〇日「国司入勘并臨時雑役等」の停止を認められた奈良大安寺の所領のなかに「南北浅井東西庄庄」とみえるが(「官宣旨案」京都御所東山御文庫記録)以後の記録から推して東西両庄からなっていたと考えられる。なお庄内には伊勢神宮領浅井御厨があったと推定され、「神鳳鈔」に「二宮御領浅井御厨」「代々国司免判文畢、供祭物上分米三石、口入料米五石、近江宮司百余石領納之」とあり、年未詳二月日の伊勢大宮司庁下文(宮司公文抄所収文書)に「浅井保」とみえる。

鎌倉時代以降は、奈良興福寺、梶井門跡妙法みようほう(現京都市東山区)、京都仁和寺、同大徳寺塔頭養徳ようとく院などがそれぞれ庄内に領有権を有した。興福寺では歴代別当が寺主・都維を当庄の給主に任命、これを管領させており(興福寺三綱補任)、一条実経が伊勢参宮した際には人夫役二七人分を(「興福寺人夫召注文」内閣本大乗院文書御参宮雑々)、また弘安八年(一二八五)五月二〇日書写の興福寺維摩会不足米餅等定(興福寺文書)によれば薦一〇枚を賦課している(興福寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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