津野親忠墓(読み)つのちかただのはか

日本歴史地名大系 「津野親忠墓」の解説

津野親忠墓
つのちかただのはか

孝山寺旧境内に鎮座する津野神社社殿床下に遺体が埋葬され、墓碑は北方観音堂の北側にある。県指定史跡。津野孫次郎親忠は、長宗我部元親の三男で、高岡郡姫野々ひめのの(現葉山村)の城主津野勝興の養子となって津野氏を継いだ。天正一三年元親が豊臣秀吉に降って後、親忠は人質として秀吉のもとに送られたこともある。慶長元年(一五九六)元親は後継を四男盛親と定めたが、これに対し親忠が不満を抱いているとの讒言により、元親は同四年親忠を岩村いわむら郷に移し、家臣と分断した。元親没後、慶長五年関ヶ原合戦に西軍にくみして敗れた盛親は井伊直政を頼ってとりなしを願ったが、その大坂への出発に先立ち、九月二九日、家老久武内蔵助らは謀って霊巌寺で親忠を切腹させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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