津久田村(読み)つくだむら

日本歴史地名大系 「津久田村」の解説

津久田村
つくだむら

[現在地名]赤城村津久田

利根川に面し、上流は棚下たなした村、下流ねこ村、東北方は長井小川田ながいおがわだ村に接し、東は広大な赤城山麓の原野。山麓崖上の原野を沼田街道が南北に走り、その支道川通道が集落を縫って通り、村の北端近くに字宿しゆくがあり、旅籠があった。村最北端の字狩野々かののは伊豆狩野氏の支族、狩野河内守安久の居住地で、昭和一八年(一九四三)上越線の津久田信号所が設けられるまで、竜泉りゆうせん寺住職を除いて全住民が狩野姓であった。津久田村を含む赤城山西麓の原野は「延喜式」所載の上野九牧の一である拝志はやし牧、中世の拝志(林)庄の地に比定される。地名の津久田も庄園の佃から出たもので、字三間入みまいりの薬師堂境内にある石祠の刻銘に「天文十一年壬寅十二月□日 上州林庄佃村 施主 河内」とある。中世末は白井しろい(現北群馬郡子持村)に拠った長尾氏の所領で、字寄居よりいにはその支城津久田城があり、前述の狩野安久の子越後守安長が居城したと狩野氏系図(「敷島村誌」所収)にある。

寛文郷帳によると田方二一七石余・畑方一千六三石余、幕府領。明和六年(一七六九)の村明細帳(津久田区有文書)によると、村高のうち四六三石余は宝永四年(一七〇七)から旗本保々領(幕末に至る)、残り八一七石余は幕府領(寛延三年以後前橋藩領)。幕府領分の反別は田一二町一反余・畑九一町三反余、本百姓家数一五七、ほかに山伏二・寺一・庵一、人数八四七、うち山伏五・出家三・道心一、馬九二。「此村用水山間出水ニ而仕付申候、旱損無御座候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報