法林寺(読み)ほうりんじ

日本歴史地名大系 「法林寺」の解説

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]左京区法林寺門前町

寺門は南面して三条通に通じる。朝陽山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。正式には檀王だんのう法林寺と称し、貞享二年(一六八五)刊の「京羽二重」に「三条大橋東詰上ル。俗にだんのと云」とあるように、檀王の通称で親しまれる。寛永版平安城東西南北町並之図にみえ、宝暦一二年(一七六二)の「京町鑑」は超勝寺ちようしようじの辻子(現左京区)に関連して「扨其西檀王法林寺の南門有。南側縄手通。少西則大橋也」と記す。

寺伝によれば初め天台宗蓮華蔵れんげぞう(院)と号して聖護院しようごいん蓮華蔵町(現左京区)にあった(坊目誌)。文永五年(一二六八)亀山院が僧道光に勅して現在地に移転、浄土宗悟真ごしん寺と称した。

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]福知山市字長田 段

段丘の末端に位置し、広大な長田おさだ多保市とおのいちの田圃を隔てて左に千歳ちとせ山、右には土師はぜ川・竹田たけだ川の合流点を隔ててみや大内おおち方面への眺望が開ける。

山号出雲路山、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。当寺は鎌倉時代末から南北朝にかけて長田を本拠とした土豪高橋高景の子清範(のち乗専)が、一向宗を究め後醍醐天皇の帰依を受けて勅額を賜り、当地に豪摂ごうしよう寺という寺を建立したのに始まるという。「丹波志」は「按古記」として、

<資料は省略されています>

と記す。

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]東通村蒲野沢

蒲野沢がまのさわに位置する。禅定山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「法林寺 禅祥山曹洞宗、田名部円通寺末寺」とある。寛文四年(一六六四)田名部たなぶ(現むつ市)円通えんつう寺の五世鷲の法子善遊が草創したものという(新撰陸奥国誌)

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]一宮市千秋町浮野 屋敷

古金山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内七一〇坪。創建不詳。初め天台宗で法林坊と号し勝栗かちぐり村の五坊野ごぼのにあった。嘉禎元年(一二三五)親鸞に帰依し浄土真宗に改めたが、天正年中(一五七三―九二)岐阜の兵乱で焼失し、現在地に小庵を再建。慶長年中(一五九六―一六一五)主僧が本山へ忠義を尽くしたので、飛檐官の免許を与えられた。

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]五所川原市飯詰 福泉

飯詰いいづめ集落の中ほどにあり、光明山と称し、真宗大谷派、本尊阿弥陀仏。もと法源ほうげん(現弘前市)末。寛文一二年(一六七二)了意が法願寺念仏道場として創立(「浄土真宗一派縁起」市立弘前図書館蔵)、延宝二年(一六七四)了誓が開基となり、同八年寺号が授けられた(飯詰村史)

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]東郷町松崎

清龍山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。草創以来天台宗として続いたといわれるが、文明二年(一四七〇)住職多田乗西が蓮如の教化を受け、六字名号を授かって真宗に改宗したという。

法林寺
ほうりんじ

[現在地名]下関市大字吉母

吉母よしもの北東部、印内いんないにある浄土真宗本願寺派寺院。光雲山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、もと法林庵と称し、大永元年(一五二一)西善の開創で、真言宗であったという。「地下上申」には当寺を「真宗法名本教清」と記し、「但此法名本ハ往古法林庵と申阿弥陀堂有之、林源蔵と申仁此庵に案信如来を移シ発心致し、則只今ハ教清と申候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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