泉庄(読み)いずみのしよう

日本歴史地名大系 「泉庄」の解説

泉庄
いずみのしよう

現鹿本町東部(旧稲田村)から菊鹿きくか町に及ぶ菊池川支流の内田うちだ川流域一帯に成立した宇佐八幡神宮寺の弥勒寺領の荘園。「事蹟通考」や「国誌」が宮崎みやざき庄としている地域とほぼ一致する。このほか現山鹿やまが下吉田しもよしだに古い由緒をもつ宇佐宮があり、同地の字三郎丸さぶろうまるには宇佐公充の銘のある永享六年(一四三四)の方石(五輪の地輪か)があるところから、この地域を泉庄内ないしはその飛地とみる説もある。荘域のうち高橋たかはし津袋つぶくろしよう(現鹿本町)など南部一帯を泉本庄、内田・相良あいら(現菊鹿町)など北部地域を泉新庄という。泉本庄の中心は高橋八幡宮が鎮座し、鎌倉期の巨大な五輪塔が残る有福ゆうふく寺跡がある鹿本町高橋であったとみられ、弘長三年(一二六三)六月二九日の少弐武藤資能請文(石清水文書)に「八幡宮領肥後国高橋庄預所好秋」とあるように、本庄のことを高橋庄ともいった。荘名の由来は、荘内各地に清泉が湧くことに由来するといわれる。応仁二年(一四六八)一〇月一〇日の菊池為邦充行状(五条家文書)には「山鹿郡泉庄百町」とあり、本庄・新庄を合せた公式の田数と思われる。

成立時期は不明。

泉庄
いずみのしよう

和名抄」にみえる大野郡出水いずみ郷に系譜を引くものか。長承二年(一一三三)正月二七日付官宣旨案(醍醐雑事記)によれば、参議右近衛権中将藤原成通の所領大野郡泉郷(四至は東限栗林・西限大会林・南限井上・北限大槻)が、京都醍醐だいご円光えんこう院に寄進され、四至を定め万雑公事を免除したうえで、官物として米三〇〇石を同領牛原うしがはら庄へ弁済することとしている。泉郷に南接する小山おやま庄も、同様に成通から安楽寿あんらくじゆ院に寄進された小山郷を母体とすると考えられるから、後世の泉庄もこの成通領泉郷を母体として成立したものであろう。

泉庄
いずみのしよう

現清水町の北部から中心部へと流れる柿田かきだ川流域一帯を中心とし、庄域の南部は狩野かの川以東、さかい川以西の地を含むと考えられる。狩野川を挟んで西は得倉とくら(徳倉)郷と隣接する。庄名は現在も毎秒一五トンといわれる柿田川(古くは泉川とよばれた)の湧水に由来する。元弘三年(一三三三)後醍醐天皇が北条氏旧領を没官した際、北条泰家跡地である「駿河国泉庄」の新補地頭職を足利尊氏に給与している(「足利尊氏・同直義所領目録」比志島文書)。その後長慶ちようけい(現藤枝市)領となり、応永七年(一四〇〇)三月九日の足利義満御判御教書(写)、同一九年五月二四日の将軍足利義持御判御教書(写)によって、同寺に安堵されている(いずれも今川家古文章写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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