河棚村(読み)かわたなむら

日本歴史地名大系 「河棚村」の解説

河棚村
かわたなむら

[現在地名]川棚百津郷ももつごう栄町さかえまち城山町しろやまちよう石木郷いしきごう岩屋郷いわやごう木場郷こばごう猪乗川内郷いのりがわちごう五反田郷ごたんだごう上組郷かみぐみごう中組郷なかぐみごう下組郷しもぐみごう白石郷しろいしごう三越郷みつごえごう小串郷おぐしごう新谷郷しんがえごう

現町域の全域をもって一村とする。川棚川沿いの上組郷「こう島」は神島とも記され、氾濫の折に鎮守の神体を移したので流出することがなかったが、それ以来その神域を川棚と称したという。下流筋の百津郷のしろひらに鎌倉期に館が築かれ、上組郷でも鎌倉期に河棚氏が館を構えたとされる。石木郷には河内氏の館跡があり、郷内の倉本くらもととさらに北東の木場郷を結ぶ石木川筋の古道は山越え嬉野うれしの(現佐賀県嬉野町)に通じるが、魚・塩の道でもあり、途中の牛屋うしや権現に大日如来が安置されている。石木の八武岩大明神に宝篋印塔・五輪塔がある。嬉野境の虚空蔵こくうぞう山は山頂部に虚空蔵菩薩が祀られ、こくぞさんと俗称されるが、彼岸に御来光を拝する習慣があり、南西麓の岩屋権現に文明四年(一四七二)銘の宝篋印塔があり、施主は妙真と記される。戦国期には河原こうら城・風南ふうなん城のほか、北部の五反田郷の小峰こみね(一六六・七メートル)には石垣を伴う平場などを残す小峰城跡があり、肥前武雄の後藤貴明が侵攻してきた際、大村筑前や堀池氏・朝長氏・南氏・矢次氏・福田氏・田崎氏および百姓層が歌舞多かぶた城などに立籠って交戦したという(大村郷村記)。小峰城は後藤氏の築城ともされる。歌舞多城跡は木場郷の歌舞多山(三四三メートル)にあり、石垣などを残す。

江戸時代は大村藩領で、海岸沿いに平戸往還が通る。江戸幕府に提出した天保郷帳などでは川棚村とするが、大村領内では東川棚村・西川棚村の二ヵ村とする場合が多い。両村は川棚川を境に分けたとされ、その時期は未詳ながら、文化一一年(一八一四)合併して再び一村になったという。天正年間頃、東川棚村は大村七郎左衛門、西川棚村は大村理右衛門が知行していたとされ、慶長高帳では知行高七一〇石余の大村理右衛門ら四人の庶家一門をはじめ、大村給人一人・小姓衆一人・彼杵給人一人・波佐見給人一人の知行。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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