河合庄(読み)かわいのしよう

日本歴史地名大系 「河合庄」の解説

河合庄
かわいのしよう

和名抄」記載の足羽郡川合かわい郷の地に成立した荘園九頭竜くずりゆう川と日野川の合流地帯の北部に位置するため河北かわきた庄ともよぶ。建久三年(一一九二)八月二七日付守覚法親王御教書草案(仁和寺文書)の「御領等被寄御堂々事」に「越前河北」「河北御領」とみえるのが早い例である。

<資料は省略されています>

これによれば、河北御領は御室仁和おむろにんな寺の北院薬師寺に供僧料として寄進されている。ただ元来皇室領であったことは、右御教書草案でも明らかであり、この性格は戦国時代末期に至っても変わらなかった。

南北朝期に入ると、次のような足利義詮御判御教書(三宝院文書)がみえる。

<資料は省略されています>

これによれば、禁裏御料所河北庄は本来仁和寺が管理する所であったが、勲功の賞としていったん斯波高経に宛行われ、のちに没官、今度は三宝院光済に給付されることとなった。仁和寺から訴訟があったようだが、室町幕府はこの訴えを却下し、両使節宛に下地一円の沙汰付を命じた。貞治六年(一三六七)四月七日、両使節連署による遵行状も発給されている(同文書)。また一方で、同年四月五日、越前守護畠山義深奉行人連署奉書が守護代遊佐国重宛に同内容の打渡しを命じ、国重の渡状等も相次いで発給されている(同文書)

またこの頃、闕所と称して、当庄公文職を競望する者があったが、足利義詮は当庄が禁裏御料所であり、三宝院光済管領の地であることを再確認し(貞治六年七月二〇日付「義詮書状」同文書)綸旨も河北庄公文職が三宝院に帰することを保証した(同年一一月二日付「万里小路嗣房添状」同文書)

河合庄
かわいのしよう

寿永二年(一一八三)の興福寺政所下文(内閣文庫蔵)に、

<資料は省略されています>

とあり興福寺領荘園。長心は給主(預所)と考えられる。その後については、応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)城上しきのかみ郡の大乗院方に「河合庄 五町七段」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)城上郡に、

<資料は省略されています>

とあり、興福寺大乗院領となったことがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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