沖洲村(読み)おきのすむら

日本歴史地名大系 「沖洲村」の解説

沖洲村
おきのすむら

[現在地名]宇佐市江須賀えすか貴船町きふねまち子安町こやすまち沖須町おきすまち住吉町すみよしまち

住江すみのえ村の東、駅館やつかん川下流西岸の三角洲上にあり、南は中須賀なかすか村、北は文政年中(一八一八―三〇)に開拓された神子山みこやま新田。古くは息洲と記し、また沖須とも記した。「柳ヶ浦郷土誌」によると当地は延暦年中(七八二―八〇六)辛島赤蜂が周防灘に築いた大堤防の一部であったと伝える。中世江島えしま別符の内。応安八年(一三七五)六月一日、大福だいふく寺住持中泉は守泉に買得相伝の寺領である散在田畠屋敷等を譲っているが(「中泉譲状案」末弘文書)、この坪付に江島別符内の田地分として「三反息洲房太郎作」「壱反十郎ママ郎作オキノスマエ」、同畠地分には「弐反息洲益永放」などがみえる。宇佐宮政所惣検校益永通輔の文明五年(一四七三)三月日付所領注文案(益永文書)に惣検校職知行分として「辛島郷江島別符息洲今津裏田畠・屋敷・本田壱町」とある。「柳ヶ浦町史」はこの今津いまづをもと今戸いまど宮付近の今門いまどに比定し、中世以前の船着場であったかとする。「宇佐郡地頭伝記」によれば、中世当地に勢力を振るったのは芦刈氏であったといい、また「柳ヶ浦町史」によると、集落は初め古村ふるむらという西寄りの地にあったが、疫病がはやったために現在地に移転したという。

沖洲村
おきすむら

[現在地名]玉造町沖洲

霞ヶ浦沿岸、行方・茨城郡境にあり、南は羽生はにゆう村。古代は「和名抄」にいう茨城郡立花たちばな郷に属したとされ(常陸誌料郡郷考)、承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)に「可令鹿島社神領橘郷事」とある。沖洲の名は応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「おきすの津鹿島知行分」とある。

江戸時代は麻生藩新庄氏領で(寛文朱印留)、寛永八年(一六三一)検地帳(沖洲区有文書)に高六四九石余、田三七町余・畠二八町余・屋敷二町余とあり、元禄四年(一六九一)百姓家数並堂宮寺数調(沖洲区有文書)には百姓家数八四、宮数八ヵ所、堂数九ヵ所、寺数八ヵ所と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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