池田新村(読み)いけだしんむら

日本歴史地名大系 「池田新村」の解説

池田新村
いけだしんむら

[現在地名]氷見市北大町きたおおまち

東は富山湾に面し、北は間島新ましましん村に続き、南は加納出かのうで村。西は広大な平坦地で水田が広がり、二宮にのみや往来沿いにできた村。この村の地はもと加納村領であったが、承応元年(一六五二)に分離し新村となった(越中志徴)。明暦二年(一六五六)の加納組高覚帳(円仏家文書)によれば、八〇軒が居住し、地子銀は一〇〇匁、定小物成銀六六匁とある。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば無高で、地子銀一〇〇匁、定小物成六六匁・散小物成八八匁、頭振七四軒とある。天保八年(一八三七)の無高巨細帳(川合家文書)では一三三軒、五〇八人が居住していた。文政八年(一八二五)八代組、天保一〇年以降上庄組に属した。

池田新村
いけだしんむら

[現在地名]砺波市上和田かみわだ

上和田村の南にある。池原いけのはら村・上和田村・正権寺しようごんじ村の三ヵ村領の地を貞享二年(一六八五)畑直しして村立てし、池原村と上和田村から一字ずつを取り村名とした。同年の畑直高七一石余・新開高三九石余、免三ツ八歩(「一村立て許可状」菊池家文書)。元禄一二年(一六九九)の礪波郡村々肝煎扶持米図り帳(川合家文書)では家数二(ただし作小屋)、ほかに他村よりの掛作百姓四人、新開村であるので肝煎はいないとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報