池原村(読み)いけはらむら

日本歴史地名大系 「池原村」の解説

池原村
いけはらむら

[現在地名]余呉町池原

国安くにやす村の北、西境の池原山に発する勘定かんじよう(文室川支流)の谷口に立地。東辺を南流する余呉川右岸に枝郷新堂しんどうがある。西へは集福寺しゆうふくじ(現西浅井町)へ至る集福寺坂越が通る。池原山には天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で柴田勝家方が築いた砦跡がある。行市ぎよういち山より東に延びる別所べつしよ山・中谷なかたに山・大池おおいけ山・林谷はやしだに山などの各峰にも勝家方の砦が置かれ、前田利家・利長父子、拝郷五左衛門・不破勝光・原彦次郎らが配されたという。勝家の身代りとして戦死した毛受兄弟の墓が林谷山の砦跡にある。なお別所山には天長八年(八三一)恵心僧都の開基という万福まんぷく寺があったと伝える。

池原村
いけばるむら

[現在地名]七山村大字池原

たき川の上流たけの(たけんこ)(池原川)と滝川の支流桑原くわばる川の谷間に、やなぎ久保くぼかみしも大屋敷おおやしき・桑原の集落が点在する。周囲はすべて険阻な山岳地で、虚空蔵こくぞう岳・小杵おづき山・ふえん岳・いさみ岳などがそびえる。古代、やま(→厳木町と松浦郡衙を結ぶ通路の一つとされていた。

建武三年(一三三六)博多の多々良浜合戦に敗れた阿蘇惟直は、この地の陣の平じんのだいら(現在は陣場平じんばだいらで追手軍と戦ったと伝えられる。

池原村
いちばるむら

[現在地名]沖縄市池原いけはら

登川ぬぶんじやー村の北にあり、池原・登川と併称される。美里んざとう間切に属する。「おもろさうし」巻二の四六に「一 いけはるのあちの(池原の按司が)/ひらたよとしよわちへ(平田にとどまりたまい)/ほつむもりみやあけれは(穂積み森を見上げれば)/かけふさい 世のふさい しよわれ(支配栄え 世の栄えなさいませ)/又 くにのねのあちの(国の根の按司が)」とある。絵図郷村帳には越来ぐいーく間切のうちに「池原村」とある。琉球国高究帳に「いけはる村」とあり、高頭一六九石余、うち田九〇石余、そのうち三五石余は永代荒地、畠七九石余。里積記によれば田畑とも下の村位である。脇地頭は順治一一年(一六五四)から康熙一三年(一六七四)まで池原親雲上昌常(楊氏石原家初代)が勤め(楊姓石原家家譜)、しばらく不明の後、道光二年(一八二二)六月から同年八月まで池原親雲上厚祚(傅氏池原家九代)、同年一二月から同治元年(一八六二)まで池原親雲上厚祥(同家一〇代)、同年から池原親雲上厚庸(同家一一代)と、傅氏池原家の系統が続いている(傅姓池原家家譜)

池原村
いけのはらむら

[現在地名]菊間町池原

高縄たかなわ半島の北西部に位置し、菊間川北岸の沖積平地と高仙こうぜ山西麓の丘陵地からなる。弥生期の遺物を出土し、字土居どいには戦国期の山城高仙城の城主池原氏の居館跡がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「池原村 日損所、芝山有、林少有」とみえ、村高は五六二石一斗四升八合である。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃には田三八町三反余、畑二四町九反余、新田畑六反余、家数八五軒、人数三九〇人である。

池原村
いけのはらむら

[現在地名]砺波市池原

上和田かみわだ村の南にあり、芹谷野せりだにの台地の和田川右岸段丘上に位置する。東から北へと曲流する坪野つぼの川が北西で和田川に合流する。元和五年(一六一九)の家高新帳には「池ノ原」とあり、戸出又右衛門組に属し役家数二。正保郷帳では高五九石余、田方五反余・畑方三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六五石、ほかに同四年の新田高五石があり、免はともに三ツ六歩。小物成は山役三四匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)四軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

池原村
ちはらむら

[現在地名]荻町柏原かしわばる

橘木たちばなき川の南岸、標高五五〇メートル前後の台地上にある村。足利直冬の子秀景が豊後の柏原に来て垣田かきたに潜居して垣田を姓としたという。秀景の孫が秀実で大友持直に仕えていたが、永享七年(一四三五)(「豊後国志」には永安七年とあるが、永安の年号は実在せず永享の誤りか)讒言によって罪を得たが、祖父秀景が夢に現れて赦免を得ることができ、祠を建てたという。「豊後国志」によると、柏原郷にある橘木明神祠は秀実の孫秀守が文明年中(一四六九―八七)今の地に移し橘木明神と称したという。

池原村
いけばるむら

[現在地名]野津町都原みやこばる 池原

筒井つつい村の北東にあり、臼杵うすきおか城路が北東から南西へ通る。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には池ノ原村分と筒井村など五ヵ村分が一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に池ノ原村とあり、高六七石余。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二八石余・畑方三九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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