出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
近世、
とある。朝鮮半島に出兵した神功皇后を補佐した武内宿禰が、紀伊国造の女(妹)と皇子との間に生れた子であるという記紀の伝承は、
近世後期の吉原組大差出帳(和歌山大学蔵)には、「八幡宮ノ神主芝崎大蔵預リ」という「武内宿禰誕生井」が記され、「続風土記」はその井について「享保年中官命ありて井辺に甃をなし、井欄を鎖して平日汲ことを許さす、傍に碑を建てゝ、武内宿禰誕生井と刻す、境内四囲籬を施し人の妄に入ることを許さす、 公子御誕生の時は此井水を御産湯に用ふるを例とす」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府南東部の市。1958年市制。人口7万4773(2010)。生駒山地南部の,大和川が河内平野に流れ出る谷口に発達した。古くから河内と大和を結ぶ長尾街道や奈良街道が通る交通の要地で,高井田横穴古墳群(史)や玉手山古墳群,河内国分寺跡,同国分尼寺跡などがある。大和川はかつて生駒山地を越えてからは北流していたが,1704年(宝永1)付替え工事が完成して以後西に直進して大阪湾へ注いでいる。付替え工事後,旧大和川の河床や新田には綿花やナタネなどが栽培され,明治期にはこれと関連した紡績や搾油工場,小規模な木綿のさらし・染色工場が立地するようになった。現在はさらにベアリングなど機械部品の製造工場も立地している。生駒山麓ではブドウが栽培されるが,近年近鉄沿線を中心に宅地化が進み,栽培面積は減少している。JR関西本線が通じ,西名阪自動車道のインターチェンジがある。
執筆者:秋山 道雄
大和川と石川の合流点に在郷町として発達し,了井川,平野川の水運によって柏原~大坂間を上下した柏原船で有名。柏原船は,代官末吉孫左衛門が洪水で荒廃した柏原村復興策として計画し,1636年(寛永13)秋に開設された。このとき船主たちによって古新町の西側に新町が建設された。翌年船仲間の再編強化が行われ,新加入船主の大坂商人14人によって新町の続きに町屋が建てられ,坂井町と称した。坂井町は46年(正保3)に末吉氏の命で本郷前の新埋立地に移り今町と改め,古新町はこのとき古町と改められた。戸数は95年(元禄8)に254戸(本郷142戸,古町51戸,今町61戸),1744年(延享1)に312戸になった。柏原船は,大和,河内の村々から米(年貢,販売用),綿,野菜などを,大坂から干鰯(ほしか)など肥料類を中心に運び,江戸時代全期を通じてその特権は保持され,柏原の発達を支えた。
執筆者:内田 九州男
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…中世以来この地を支配した肝付氏が,天正年間(1573‐92)に移封されてからは島津氏の所領となる。江戸時代には,肝属川河口の柏原(かせばる)は,米の積出しや琉球などとの貿易の港として栄えたが,今は漁港で,国家石油備蓄基地が地先にある。明治末期には大規模な耕地整理が行われ,それまでの低湿地は二毛作さえ可能な良田となった。…
※「柏原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
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