池内村(読み)いけうちむら

日本歴史地名大系 「池内村」の解説

池内村
いけうちむら

[現在地名]宮崎市池内町・平和が丘西町へいわがおかにしまち平和が丘東町へいわがおかひがしまち平和が丘北町へいわがおかきたまち

下北方しもきたかた村の北に位置し、宮崎郡に属した。東は南方みなみかた村と那珂郡新名爪にいなづめ村など、北東は同郡広原ひろわら村、西は上北方村、北西は瓜生野うりゆうの村。南北に往還道が通る。

〔中世〕

文安五年(一四四八)正月一一日の源祐幸寄進状写(奈古神社文書)に宮崎庄内池内方とみえ、祐幸は池内方の萩薗はぎぞの一反を奈古なご社に寄進している。寛正六年(一四六五)二月吉日の神事注文写(同文書)によると、奈古社の春秋彼岸役として三日目を池内村が勤め、的次第では丑未の年を当村が勤めることとなっていた。また年月日未詳の奈古社相撲日記写(同文書)の四番にも「池内の村」がみえ、当村は奈古社の社役を担う村であった。享禄二年(一五二九)一一月の奈古宮遷宮入用日記写(同文書)によると、池内代官右松左京亮は奈古社に太刀一・料足五〇〇文を奉納している。戦国期の伊東氏領の社領を書上げた弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、妻万つま(現西都市都萬神社)領として宮崎池内の菖ノ町五段、本庄ほんじよう八幡宮(現国富町)領として宮崎池内方の菖ノ町五段、高城比木たかじようひき大明神(現木城町)領として宮崎池内一段、宮崎の船塚ふなつか領として池内五段、三納吉野みのうよしの大明神(現西都市)領として宮崎池内方に一段、奈古社領として池内方に紙漉田など二町二段、三納の高寺領に池内方一段、宮崎三王鵜島権現領として池内に一町二段と屋敷一ヵ所などが付けられている。

池内村
いけうちむら

[現在地名]松原市天美東あまみひがし一―九丁目・天美北あまみきた一丁目・同六―七丁目

三宅みやけ村の西にあり、大和川付替え以前西除にしよけ川が北流していた時はその右岸であった。おおむね平坦な地形。「河内志」は、記紀にみえる依羅よさみ池は当地の池内池であるとの説を記すが、池内池の存在は不明。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)にみえる丹北郡矢田やた庄の田地所在地の一所に「北参条(中略)野中里拾捌坪捌段」とあるが、池内村の字に野中のなかがあり、三宅村北西部に野中池があるので、一帯は「野中里」にあたると考えられる。近世には丹北郡に属し、慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に村名がみえ、狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋おおひ筋から取水していた。

池内村
いけないむら

[現在地名]大館市上川沿かみかわぞえ 池内

大館町南端部、西流する米代川流域に立地する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田とあり、一三七石とある。享保一五年(一七三〇)戸数は二二軒(六郡郡邑記)以後の村勢は寛政六年(一七九四)給分当高二二七石余(六郡惣高村附帳)戸口推移は慶安元年(一六四八)三四戸、一四二人、安政四年(一八五七)四一戸、一八二人、同七年四四戸、二六〇人(大館市史)

池内村
いけのうちむら

[現在地名]香南町池内

横井よこい村の北西、小田おだ池西側の本津ほんづ川流域に位置する。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳に村名がみえ、高二一一石余。溜池は横井池と合せて一四、そのほか由佐ゆさ村の音谷おんだに池から水掛り一三五石余を得ていた(池泉合符録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報