永良庄(読み)ながらのしよう

日本歴史地名大系 「永良庄」の解説

永良庄
ながらのしよう

貞応元年(一二二二)七月一二日の関東下知状(京都大学所蔵文書)に永良庄とみえ、鎌倉幕府執権北条義時は基康(姓未詳)の永良庄地頭職を停止し、領家の進止とするよう命じている。おそらく承久の乱後に基康が地頭となり、京方に一味した者の所領を幕府から与えられたが、領家の訴えにより解任されたものと思われる。没収地であればどのような諸職であっても地頭職の対象となりえたから、以前から地頭がいたとはいえない。領家がどこであったかは不明。なお同下知状には永良の別名位田と記されるが、元亀三年(一五七二)の作と伝える永良鶴水の武道物語(智恵袋)には永良氏の小姓位田式次郎がみえる。永良氏は赤松七条家の支流で、永良庄を本貫地として庄名を名乗った。応安元年(一三六八)五月一二日、播磨守護赤松則祐が当庄を赤松孫三郎に安堵している(「赤松則祐安堵状」永良家文書)。永良氏祖については諸説あるが、「尊卑分脈」にしたがえば、この孫三郎は赤松範資の子範隆ということになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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