水島村(読み)みずしまむら

日本歴史地名大系 「水島村」の解説

水島村
みずしまむら

[現在地名]松任市水島町

源兵衛島げんぺいじま村の南に位置し北陸街道が通る。同街道の宿駅。中世には当地から現美川みかわ末正すえまさ町にかけてを含んだ水島保があった。寛正六年(一四六五)九月二日、杉原(椙原)伊賀守賢盛が知行していた「水島保内末正名」を白山本宮東神主が違乱したため、幕府はこれを止めている(「伊勢貞親書状案」遺編類纂、「親元日記」)。また戦国期のものとみられる加賀国御領中京家領注文(本願寺文書)に「水島」がみえる。なお「三宮古記」の文保三年(一三一九)三月の白山遷宮に関する記事に「御シソク大宮司 水島又五郎兵 」がみえ、延文二年(一三五七)一一月の白山本社・荒御前社遷宮に際し、「大宮司水嶋備前三郎守信」が御紙燭役を勤めているが(「本社并荒御前社遷宮日記写」白山比神社文書)、いずれも水島保に基盤をもつ者と推定される。

水島村
みずしまむら

[現在地名]小矢部市水島

上後丞かみごぜ・下後丞両村の南西、横江宮よこえみや川左岸平地に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数二二、高木組に属する。正保郷帳では高一千二八八石余、田方八二町六反余・畑方三町二反、新田高四二八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千七九九石・免三ツ五歩、小物成は野役八三匁、鮭役一一匁(うち一〇匁出来)・鮎役七匁(うち一匁出来)であった(三箇国高物成帳)

水島村
みずしまむら

[現在地名]荒尾市水野みずの

うら川中流東岸の水野台地一帯に立地、東は菰屋こもや村・牛水うしのみず村、西・南は牛水村、北は蔵満くらみつ村に接する。中世は野原のばら庄西郷に属し、応永一四年(一四〇七)五月一四日に同郷倉満くらみつ名内の土地・屋敷を去渡した小代広行袖判の片山親行去渡状(小代文書)に「一所 一反中 ミつしまの下犬丸」がある。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると野原八幡宮大祭の大行事を勤めた四ヵ村の一つで、弘安二年(一二七九)の項の「小行事水島源三別当」をはじめ当村住人の名が多数みえ、大永四年(一五二四)の項には「水嶋之村」と村名が付されている。

水島村
みずしまむら

[現在地名]智頭町大背おおせ

栃本とちもと村の土師はじ川対岸北方にあり、同川左岸に集落が発達。「因幡志」は民家のある字として黒地くろおじをあげる。拝領高は六九石余。吉村氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高七六石余、毛付高八八石余、本免六ツ四分、同年の物成高四九石余、天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)と推定される書上(古田家文書)では田畑畝数五町一反、家数七・人数二九、牛三。「因幡志」では家数一二。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高八六石余、竈数六。享保一三年(一七二八)当村の悪田畑七石余に対して向う一〇年間一石の加損米が認められた。文政二年(一八一九)当年の年貢収納に心を尽し皆済したとの理由で藩より褒美を遣わされている(以上「在方諸事控」)

水島村
みずしまむら

[現在地名]七城町うてな

辺田へた村の西、内田うちだ川の左岸にある。台台地の西南端にあたり、村域のほぼ中央を南北に山鹿やまが椎持しいもち(現鹿本郡鹿北町)に至る椎持往還が貫く。同往還の東と西とでは地形が大きく異なり、東側は標高約七〇―八〇メートルの台地、西側は内田川沿いに水田が広がる。「和名抄」の水島郷に比定される。

菊池十八外城の一つ台城(水島城)跡があり、永和元年(一三七五)今川了俊と菊池武朝との間に合戦が繰広げられた。

水島村
みずしまむら

[現在地名]会津坂下町樋島といしま

佐賀瀬さかせ川扇状地にあり、南西は樋渡ひわたし村、北は大江おおえ村。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「水島僕一番」とある。天正一四年(一五八六)正月二〇日の諏訪神社領収納日記(新編会津風土記)に「水嶋ハ、前代ハ二貫文たつといへとも、いま米五つにて候、五まん堂へのきしんに御座候」とあり、黒川くろかわ(現会津若松市)の諏訪神社の社領であった。同一七年七月二四日の伊達政宗充行状(同書)に「米四ツみつしま」とあり、政宗も諏訪神社に旧例どおり安堵している。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に水嶋とあり、高二二六石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高二二八石余・新田高一石余、免四ツ九分余、家数二四、竈三四、男八〇・女六一、馬一五、小物成に綿役・糠藁・足前・山役があり、ほかに役漆木二九七本余、役蝋六貫二三九匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報