水主神社(読み)みずしじんじや

日本歴史地名大系 「水主神社」の解説

水主神社
みずしじんじや

[現在地名]大内町水主

与田よだ右岸、水主から入野山にゆうのやま(現白鳥町)に出る道の南側山裾、字宮内みやうち鎮座する。大水主おおみずし社ともいう。背後の社叢は県の自然環境保全地域になっており、境内の大杉は県の保存木に指定されている。「延喜式」神名帳の大内郡水主ミスシノ神社」で、旧県社。祭神倭迹迹日百襲姫命。至徳三年(一三八六)大般若経函底書(社蔵)には「当社明神者縁起不詳、垂迹難弁」としながらも元亨四年(一三二四)六月の惣官盛村の申状案に「自宝亀年中御垂迹以来」とあるとして、宝亀年中(七七〇―七八〇)創祀と伝えている。大水主大明神和讃(社蔵)には百襲姫命が八歳のとき水主に居を定め、水徳自在の神として与田に水を引いたとある。「続日本後紀」承和三年(八三六)一一月七日条に「讃岐国水主神奉授従五位下」とあり、貞観八年(八六六)四月九日には従五位上(三代実録)、天慶三年(九四〇)には藤原純友の乱平定祈願の功により正五位下を授けられ(長寛勘文)、寿永年間(一一八二―八四)には平教経が大雁股を寄進し、源義経が鞍を奉納したと伝え、社宝として現存する。平安末期に書写されたという大般若経を収めるために、至徳三年経函六〇函が作られ、文安二年(一四四五)には経巻が修復された(前掲経函底書)。また若一王子大般若経(若王寺蔵)巻五一二の奥書に応永八年(一四〇一)五月七日、大水主社において賢真が書写したことが記され、京都北野社一切経(大報恩寺蔵)の応永一九年四月二六日書写阿差末菩薩経巻七奥書にも「大水主社 良仁」とみえるなど、写経活動も盛んだったことがわかる。

水主神社
みずしじんじや

[現在地名]城陽市水主

木津きづ川の右岸にある水主集落の北方に鎮座。祭神は天照御魂あまてるみたま神・天香語山あまのかぐやま神・天村雲あまのむらくも神・天忍男あめのおしお神・建額赤たてぬかがみ命・建諸隅たてもろずみ命・建筒草たてつづくさ命・建多背たてたせ命・倭得玉彦やまとえたまひこ命・山背大国魂やましろのおおくにたま命。旧府社。「続日本後紀」承和一一年(八四四)五月二二日条に「奉山城国水主神従五位下」とあり、「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条に従四位下、同書同八年一一月二〇日条に従四位上の昇階記事がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報