大庄屋(読み)おおしょうや

精選版 日本国語大辞典 「大庄屋」の意味・読み・例文・類語

おお‐しょうや おほシャウや【大庄屋】

〘名〙 (「おおじょうや」とも) 江戸時代、地方(じかた)役人の代官、郡奉行と、村の庄屋(名主、肝煎(きもいり))との中間にあって、数村または二、三〇か村の庄屋を支配した在地役人。地方によっては大肝煎、惣庄屋、大惣代、検断ともいい、法規の伝達や年貢、課役(かやく)割付けなどのほか、村々の訴訟の調停にもあたった。徳川幕府正徳三年(一七一三)、村民にとって不利益としてこれの廃止に踏み切ったが、私領の中にはこの制度を温存するところが少なくなかった。

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デジタル大辞泉 「大庄屋」の意味・読み・例文・類語

おお‐じょうや〔おほジヤウや〕【大×庄屋】

《「おおしょうや」とも》江戸時代、地方行政を担当した村役人の一。代官または郡奉行の下で数村から数十村の庄屋を支配して、法規の伝達、年貢割り当て、訴訟の調停などを行った。大肝煎おおぎもいり大総代。検断。割元わりもと

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改訂新版 世界大百科事典 「大庄屋」の意味・わかりやすい解説

大庄屋 (おおじょうや)

江戸時代の地方(じかた)役人の一つ。農民身分としては最高の地位。領主は,領内を組,手永(てなが),宰判(さいばん)などに大区分し,それごとに大庄屋を置くことが多かった。ただし幕領では,1713年(正徳3)諸国代官への通達(全13条)の11条において,大庄屋,割元,惣代などを廃止した。その理由は,彼らへの多額の給米が村の負担となること,彼らの専断により百姓が難儀する場合が多いこと,の2点にあった。

 藩領では,幕末まで大庄屋制度を維持したところが多い。長州藩(外様大名)では領内を宰判(幕末には18宰判)という行政区域に分け,宰判ごとに代官と大庄屋を置いた。各宰判はおおむね20~30ヵ村を含み,大庄屋が各村庄屋を統轄した。各宰判の中心役所を勘場といい,大庄屋はそこに詰めて勘場の諸役人を指揮した。大庄屋の多くは永代苗字帯刀御免で,その民政上の実力は藩の下級役人よりも強かった。加賀藩(外様大名)では大庄屋にあたるものを十村(とむら)といい,改作奉行の下にあって10ヵ村前後を統轄した。会津藩(家門)ではこれを郷頭(ごうがしら)といい,代官の下にあっておよそ1万石程度の村々を支配した。大庄屋の権限は非常に強く,百姓一揆にあたっては攻撃目標にされる場合もあった。以上はいずれも大藩の事例だが,譜代中藩にも大庄屋が置かれていた場合が少なくない。出羽山形領では1645年(正保2)領主松平直基が,15万石の所領に大庄屋18人を置いたのがはじめとされており,以後の領主は若干の改廃を行ったが,大庄屋制度そのものは維持された。山形領の大庄屋の多くは戦国大名最上氏の遺臣で,同氏が改易された後土着したものだといわれている。日向延岡藩(内藤氏)でも組ごとに大庄屋が置かれていた。

 大庄屋の大部分は苗字帯刀御免であり,広大な屋敷地と豪壮住居土蔵を持つ最上層農民であって,その民政上の影響力はきわめて強く,領主は,彼らの持つ伝統的な力に依拠して領内支配をすることが多かった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大庄屋」の意味・わかりやすい解説

大庄屋
おおじょうや

江戸時代の最上位の村役人。通常は、村役人の支配する村を十数か村から数十か村統轄する者をいい、その支配の範囲は、村高にして7000~8000石から1万4000~1万5000石であったという。身分は農民であるが、旧来は武士の由緒をもつ者が多く、その地方では格式の高い家とみられた。また支配者により、苗字(みょうじ)帯刀などの格式を許され、士分として扱われた場合もある。また収入として組下の村から給米を徴収したり、領主から切米(きりまい)や扶持(ふち)を支給される場合もあった。その名称は地域によって異なり、惣(そう)庄屋、惣代名主、割元(わりもと)、用元、検断、大肝煎(おおきもいり)、十村(とむら)、手永(てなが)などと称された。その職務の内容も地域によって差異があるが、代官、郡代、郡奉行(こおりぶぎょう)らの地方(じかた)役人の指揮下で、組下の庄屋、名主を統轄し、法令の伝達、年貢、夫役(ぶやく)の割付け、村々の訴訟の調整にあたった。初期には、天領、大名領にともに置かれたが、天領では正徳(しょうとく)年間(1711~16)に、不正が多いと廃止された。

[上杉允彦]

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百科事典マイペディア 「大庄屋」の意味・わかりやすい解説

大庄屋【おおじょうや】

江戸時代の村役人の一種で,惣庄屋,割元などとも。加賀金沢藩の十村(とむら)は著名。数ヵ村以上の庄屋・名主の上に立ち農民の最高位。苗字帯刀扶持米給与等高い格式を与えられていた。→村方三役
→関連項目山中一揆鳥取藩元文一揆村役人山形藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大庄屋」の解説

大庄屋
おおじょうや

大肝煎(きもいり)・大名主(なぬし)・割元(わりもと)とも。近世の幕領や藩領で村をこえた広い領域におかれた地方(じかた)役人。熊本藩では惣庄屋,金沢藩では十村(とむら)という。管轄地域を組・郷・触・領・手永(てなが)・通(とおり)などとよぶ。幕府や藩から管下の村々への布達・伝達,村が提出する文書への奥書,普請場所の検分や村々の人別帳・明細帳の集中管理などが職務。円滑な地域行政遂行のためには有効だったが,世襲制による弊害も生じた。17世紀後半以降,藩によっては世襲制を廃止し,村役人のなかから能力に応じて抜擢するようになり,地方支配を代行する中間的官僚の性格が強くなった。幕領では,1713年(正徳3)不正を理由に廃止され,原則として復活されなかった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大庄屋」の意味・わかりやすい解説

大庄屋
おおじょうや

割元名主 (わりもとなぬし) ともいう。江戸時代の村役人の一つ。数ヵ村から十数ヵ村を支配し,法令伝達,管内庄屋の取締り,訴訟の調停などにあたった。土豪の系譜をひくものも多く,苗字帯刀を許され,なかには諸士格として知行を給されている例もある。 (→組頭 , 百姓代 )

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旺文社日本史事典 三訂版 「大庄屋」の解説

大庄屋
おおじょうや

江戸時代,村役人の最上位の職
惣庄屋・与頭庄屋・割元 (わりもと) ・検断・十村 (とむら) ・郷頭などともいう。代官あるいは郡奉行の下に数か村ごとに置かれ,各村の庄屋・名主 (なぬし) を統率支配し,法令の伝達,願書・訴状の奥書,年貢・夫役の割付けなど農政を担当した。

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世界大百科事典(旧版)内の大庄屋の言及

【郡中惣代】より

…各地の幕領により,人数(1,2~十数名),名称,機能,性格に若干の違いがある。郡中惣代は1713年(正徳3)幕領に対して出されたいわゆる〈大庄屋廃止令〉以後,大庄屋の代りに置かれたものとされたり,藩領の大庄屋,大肝煎などと同質視されたりするが,別系統のものである。大庄屋が武士的身分を有し,支配機関としての性格が強いのに対し,郡中惣代は身分上,経済上の特権がない場合が多く,郡中各村の庄屋(名主)との間の書簡往復,寄合(〈郡中寄合〉)開催などの恒常的な連絡ルートによって全庄屋(名主)の総意を代表しうるなど,郡中村役人の代表=〈惣代〉としての性格を強くもつことが重要である。…

【十村】より

…加賀藩の農政機関の名称で,他領の大庄屋に相当し,農政実務の上で重要な役割を果たした。通説では1604年(慶長9)郡奉行の下に設置。…

※「大庄屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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