毛井村(読み)けいむら

日本歴史地名大系 「毛井村」の解説

毛井村
けいむら

[現在地名]大分市毛井

大野川と乙津おとづ川の分岐点の西側に位置する。海部郡に所属。東は乙津川を隔てて大津留おおつる村、北西の大分郡横尾よこお村から日向道(臼杵・府内城路)が当村に入り、大野川東岸の宮河内みやがわうち村へは船渡しで渡河する(「府内往来之図」臼杵図書館蔵)対岸大内おおち深迫ふかさこへは「往古往来道筋」であり(竹中家文書)、古代以来の日向道の渡河地点(舟本渡)であったと考えられる。一八世紀中頃には南の幕府領大分郡松岡まつおか村との村境に「従是北臼杵領」と記された境木が設置されていた(「雑録」臼杵藩政史料)。対岸の宮河内村の北には当村の新田(毛井新田)があった(府内往来之図)

中世には当地と現松岡の一部を含んで毛井村と称した。文治年中(一一八五―九〇)に宇佐宮太大工小山田貞遠が作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に毛井村とみえ、当村は豊後一国役として置路甃六八丈五尺内若宮鳥居内五尺のみを負担している。また由原ゆすはら社に対しては、大佐井おおざい郷、佐賀さが(現佐賀関町)井田いだ(現犬飼町)野津のつ(現野津町)とともに埒を負担している(文亀元年一二月一三日「賀来社遷宮等次第記」柞原八幡宮文書)。埒は流鏑馬が実施される馬場の柵と考えられる。当村は豊後国弘安田代注進状の海部郡に「国領毛井村拾町、地頭信濃国御家人平林弥太郎親継法名行円」とあり、一〇町歩しかない。大分川左岸に立地しながら海部郡所属とされること(河道の変遷とも考えられるがその痕跡はない)、一〇町という小所でありながら国領となっていることは、官道上の津済という交通上の要衝であったためとされる。

毛井社地頭職は嘉禎二年(一二三六)七月二八日、承久の乱の勲功の賞として平林四郎津守頼宗に与えられた(「将軍家政所下文」碩田叢史平林家古文章)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android