母里村(読み)もりむら

日本歴史地名大系 「母里村」の解説

母里村
もりむら

[現在地名]伯太町母里・東母里ひがしもり西母里にしもり

現伯太町の北部にあって南は市中屋いちなかや村、北は安田中やすだなか村に通じ、東は伯耆国会見あいみ郡。「郷方古今覚書」に「母里村より、伯州猪小路村迄三十三町三間、此所峯通国境」とある。村の中央を伯太川が北流し、東には蛇喰じやばみ川、西には卯月うづき川があってともに伯太川に注ぐ。古墳群が一〇ヵ所ほどに認められる。古代の意宇おう(のち能義郡)母理郷の遺称地で、中世には母里庄に含まれた。伝えでは平景清の臣水畑権太夫実家が当地を治めたといい(元禄二年「地方由緒書」、同五年「八幡宮由緒」伯太町史)、守護佐々木氏の時代には高解某(あるいは牛屋治郎兵衛)が治め(元禄二年「届書」郷土母里)、尼子氏時代にはその家臣和田源太左衛門が宝文元年(天文元年か、一五三二)から永禄九年(一五六六)まで治めたという(同届書)。この間、国境近くに位置する要衝として城砦が築かれ、亀遊山きゆうざん砦跡・豊岡とよおか城跡高解こうげ城跡・壇原だんばら城跡などがある。

江戸時代に入ると松江藩領となるが、貞享元年(一六八四)母里藩の封地となり、同年藩館が西母里に築造された。これ以前から伯太川西岸沿いの母里集落は都市的発達をみて母里町とよばれ(伯太町史)、この母里町を含んだ村の西部を西母里(村)、東部を東母里(村)と称した。東西に分つ呼称は母里庄の東西分割に淵源し、江戸時代の地方文書では東母里(村)・西母里(村)の二区分ないしは母里町・西母里(村)・東母里(村)に三区分されている例が多いが、正保国絵図には母里村一村が記される。

母里村
もりむら

[現在地名]榛原町大字母里

芳野ほうの川西方、比布ひふ村東南の丘陵傾斜地の村。宇太水分神社古図に「上守」「中守」「下守」の地名を記す。慶長郷帳・元和郷帳には「森村」とあり、慶長郷帳の村高三一一・七九二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報