次郎丸村(読み)じろまるむら

日本歴史地名大系 「次郎丸村」の解説

次郎丸村
じろまるむら

[現在地名]稲沢市治郎丸じろまる町・治郎丸〈石塚いしづか町・大角おおすみ町・きた町・郷前ごうまえ町・神木しんぼく町・清敷せいしき町・大明だいみよう町・高須たかす町・椿つばき町・天神てんじん町・土井どい町・なか町・西にし町・白山はくさん町・ひがし町・古江ふるえ町・細道ほそみち町・みなみ町・もと町・やなぎ町〉

東は陸田くがた村・長野ながの村に接する。村の西境を大江おおえ川が流れ、東岸に本郷があり、かみきり・下ノ切に分れている(天保村絵図、徇行記)。仁治二年(一二四一)尾張国に出された官宣旨(醍醐寺文書)に「尾張俊氏領掌当国重枝・次郎丸両名主職事」とみえ、弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案(同文書)に「一、重枝次郎丸田畠」とみえる。

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]早良区次郎丸一―六丁目

有田ありた村の南、室見むろみ(早良川)右岸にある。対岸橋本はしもと(現西区)三瀬街道がほぼ南北に通る。嘉禎三年(一二三七)五月の山城石清水いわしみず八幡宮の検校で筥崎宮の検校を兼ねていた宗清の処分状(石清水文書/鎌倉遺文七)には辰姫分のうちに「本名二郎丸」がみえ、「筥崎宮領、可相伝領掌之由、在譲状」と記される。永正三年(一五〇六)一〇月日、箱崎対馬新左衛門尉為親は次郎丸社家分の所務代職を一〇〇石で箱田木工允に売却している(「対馬為親売券案」石清水文書/大日本古文書四―二)。この社家分は二〇町(天文二年五月一五日「大内家奉行人奉書案」同上)

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]松野町豊岡とよおか

吉野よしの川右岸の村。東は松丸まつまる村、西は出目いづめ(現広見町)に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「二郎丸村 柴山有、茅山有」と村名が異記される。宝永三年(一七〇六)の「大成郡録」によると、当村は本村ほんむらかわうち窪田くぼたいしうちの四つに分れていたが、天明二年(一七八二)豊岡村と改称された。

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]笹神村次郎丸

真光寺しんこうじ山の西麓に位置し、南は坂町さかまち村、西は金屋かなや村と接する。弘安六年(一二八三)四月五日の大見行定譲状(大見安田氏文書)に「白河庄猿田村并温川条内次郎(丸)地頭職」とみえ、行定はこれらを娘の真珠に譲っているが、このうち二町は地頭給田であった。乾元二年(一三〇三)六月二九日、大見頼資(行定の甥)白河しらかわ庄「下条山浦温川条」次郎丸のうち次男名徳に権三郎名田屋敷を、長女摩尼王に法行名を、次女如意王に金屋十郎名田在家を譲っている(「大見頼資所領配分目録」同文書)

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]国東町治郎丸じろうまる

現町域の南部に位置し、東は伊予灘に面し、国東道が通る。治郎丸とも。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、川島・藪ら五氏の知行分として高四〇四石余で、家数五八のうち本百姓・小百姓二四、隠居・名子・牛屋三九、男三八(うち名子三)・女四七、牛一八・馬一。正保郷帳では武蔵むさし郷次郎丸村として田高二二七石余・畑高五七石余で、新田が開かれ、茅山・柴山があり、日損所と注記される。

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]金津町次郎丸

北疋田きたひきだ村の北にある。慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)に丸岡領として当村(高二八九・〇七四石)も記される。慶長一一年頃の越前国絵図では坪江つぼえ上之郷に含まれていた。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、福井藩預領となった。

次郎丸村
じろうまるむら

[現在地名]杵築市宮司みやじ

杵築城下馬場尾ばばお口番所を出て、武家屋敷集落を抜けた所にあり、台地上に畑と集落、低地水田をもつ。小倉藩慶長人畜改帳では木付下きつきしも庄に属し、二郎丸村とみえ、家数二〇・人数四一(うち本百姓六、親・名子・男子一〇)、牛八・馬一。小倉藩元和人畜改帳では家数一六・人数六八(うち庄屋一・百姓一五・名子三)、牛一一・馬二。

次郎丸村
じろまるむら

[現在地名]和歌山市次郎丸

東西に並ぶ近世の楠見くすみ庄四ヵ村の西端に位置し、北はなか村、南は延時のぶとき梶取かんどり両村。村域は狭く、古代には紀ノ川の河中であったと推定される。地名は中世の名田の名に由来するとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android