槙原村(読み)まきばらむら

日本歴史地名大系 「槙原村」の解説

槙原村
まきばらむら

[現在地名]鳥取市槙原

野坂のさか川の上流部、松上まつがみ村の西の谷奥に位置する。松上村田中たなかから一二町、さらに一二町奥に支村小原こはらがある(因幡志)小原正保国絵図では一村とされていたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際槙原村に含まれることになった(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。当地の加藤家文書に慶長年間(一五九六―一六一五)のものとみられる検地帳があり、本田八町一反余(筆数一五二)・新開田二反余(筆数二九)、畠一町五反余(筆数一三〇)・新開畠一反余(筆数一四)を記載。田方の等級は上・中・下・下々とされ、畠方は上・麻・屋敷・中・下・下々・切に分れており、麻畠の記載があるのが慶長検地帳の特徴とされている。

槙原村
まきはらむら

[現在地名]与板町槙原

山沢やまざわ村の南、三島みしま丘陵が信濃川・くろ川の沖積低地に接する麓に立地。東には平坦地が広がり、西は丘陵地、南に宮沢みやざわ(現三島町)が続く。丘陵には縄文時代の遺跡が分布し、地内から出土する須恵器には青海波文が施され、村落形成は平安初期にさかのぼるといわれる(与板の文化財)気比宮きいのみや(現三島町)の気比神社社記(八田国雄氏蔵)によると、養老年間(七一七―七二四)当時付近に一二の屯倉があったと伝え、そのなかに「前原」の地名がある。また当地の称念しようねん寺が所蔵する慶長九年(一六〇四)紀銘の蓮如上人真影裏書には「前原村称念寺」と記し、当村は前原まえはら村と称されていた。元和六年(一六二〇)長岡藩領、寛永一一年(一六三四)与板藩領となったが、のち藩主牧野氏の移封に伴い一時幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報