植野村(読み)うえのむら

日本歴史地名大系 「植野村」の解説

植野村
うえのむら

[現在地名]佐野市植野町・植上町うえかみちよう植下町うえしもちよう若宮上町わかみやかみちよう若宮下町わかみやしもちよう北茂呂町きたもろちよう上台町かみだいちよう七軒町しちけんちよう寺中町じちゆうちよう庚申塚町かねづかちよう大古屋町おおごやちよう伊保内町いぼうちちよう

佐野川の東岸および南西岸に位置し、東部に茂呂山丘陵がある。北は天明てんみよう町・小屋こや町。上野館林と佐野を結ぶ日光脇往還が西部を南北に走る。枝郷に大原おおはら・大古屋・若宮・庚塚かねづか(現庚申塚町)・伊保内水入(現伊保内町か)がある。応安元年(一三六八)九月日の嶋津弥三郎代田村忠長軍忠状(嶋津文書)によると、武州平一揆に加勢した宇都宮氏綱を討とうとする関東府軍上杉憲春の「植野御陣」で忠長が警固を行っている。植野とは当地のことか。文明一八年(一四八六)三月二日、聖護院道興は館林から「うへのの宿」を経て佐野に至っており(廻国雑記)、「うへのの宿」は当地と考えられる。

元和二年(一六一六)の家調帳(木塚芳明文書)には「植野郷」とみえる。慶安郷帳に村名がみえ、田高二千七五六石余・畑高一千五五三石、下総古河藩領。貞享元年(一六八四)再興された佐野藩領となり、陣屋が置かれた。

植野村
うえのむら

[現在地名]山形市高原町たかはらまちとうまえ近田ちかだ

切畑きりはた村の西に位置し、不動ふどう沢を西流する八龍はつりゆう(馬見ヶ崎川支流)渓口に発達した集落。野呂のろ川の堆積地上にある。植木うえき村とも称した。明治二〇年(一八八七)院役いんやく村―風間かざま村間の新道ができる以前は、大野目だいのめ村より当村を通り、風間村から山寺やまでら村へ通じる街道があった。高原古墳、高原上たかはらうえはら古墳がある。

最上氏改易後は山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、同三年下総佐倉藩領、寛延二年(一七四九)肥前島原藩領、安永三年(一七七四)から再び佐倉藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高五六三石余、ほかに一四三石余があり、「西ノ入縄ニ引」と記される。

植野村
うえのむら

[現在地名]御調町植野、野間のま 山岡やまおか

当村は村域が二つに分れており、津蟹つがに村の南東部に接する部分を本郷ほんごう組、野間村北東にある飛郷を山岡組と称する。本郷組は御調川沿いの平坦地の一部と、南西に延びる田上たがみ谷と両側の山地部、御調川の支流野間川沿いの友信とものぶ谷の西側の山地部で構成されており、中に丸河南まるかなん村の飛郷がある。山岡組は野間村の北側の山岡谷を中心に本郷と同じくらいの広さがあり、「芸藩通志」に水利が不便とある。友信谷の西側山地の久保くぼさこ遺跡からは磨製石斧が出土、久保ヶ迫古墳もある。田上谷はかつては御調別宮みつきべつく(八幡庄)のうちであったと考えられる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に「上野村」とあり、高四五六・七六八石。「芸藩通志」による畝数五七町八反余で高五二六・九八五石、戸数九六・人口四一三、牛五九・馬四二。池にかがみ(本郷組)畝山うねやま(山岡組)、物産に草綿きわた・火縄、山岡組の炭・串柿、神社に天満宮、山岡組建石たていしに八幡宮跡(野間村へ遷宮)があり、友信谷に長福ちようふく寺跡、山岡組にある烏帽子岩の傍らには蛭子神小祠が祀られ、末近四郎三郎居城と伝える末近すえちか城跡が野間村の南に接する地にあると記す。

植野村
うえのむら

[現在地名]鹿沼市南上野町みなみうえのまち

くろ川の左岸段丘上に位置。東は上石川かみいしかわ村・下石川村、南は藤江ふじえ村、西は大和田おおわだ村、北は下奈良部しもならぶ村。上野村とも記された。慶安郷帳に植野村とみえ、田四五石余・畑一〇四石余、幕府領。元禄郷帳では日光領・宇都宮藩領・旗本依田・宮城の四給。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録によると、当村二〇石余が日光領で、うち七斗余が鉢石はついし(現日光市)、一九石六斗余が七里しちり村・野口のぐち(現同上)の「新道成候替地」であった。

植野村
うえのむら

[現在地名]前橋市総社町植野そうじやまちうえの総社町桜が丘そうじやまちさくらがおか

利根川右岸にあり、東の対岸は川原島かわはらしま新田、北は大久保おおくぼ村・漆原うるしばら(現北群馬郡吉岡村)、西は大久保村・高井たかい村、南は総社町。村域内を天狗岩てんぐいわ用水が貫流する。もと上野と記したと伝える。現在の総社町桜が丘の南の岡屋敷おかやしきという地域に集落があったが、寛永一〇年(一六三三)の宿直しにより現在地に町割を行ったという(大谷文書)。天正一八年(一五九〇)以降総社領で、寛永一〇年高崎藩安藤氏領となり、同一二年四月二〇日から検地が行われた。

植野村
うえのむら

[現在地名]関市植野

武儀むぎ川左岸にあり、東部は山沿い、西部は河岸の平坦地。山県やまがた郡に属し、東と南は千疋せんびき村。「濃陽志略」は中世には植野であったが、石河氏宛の朱印状に上野とあったため上野としたが、今は植野に復すとする。応永一八年(一四一一)五月三日の比丘尼明輪先達檀那売券(真長寺文書)に檀那在所の一つとして「上野」とみえる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦前後は加藤貞泰(黒野藩)領と考えられ、同一五年の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によれば、上野村一九五石余は石河光忠(のち石河氏は尾張藩家老)に宛行われ、光忠は当村を居所として一万石を領した。

植野村
うえのむら

[現在地名]中津市植野

犬丸いぬまる川東岸台地上にあり、東は宇佐郡富山とみやま(現宇佐市)、西は犬丸川を挟んで犬丸村、北は鍋島なべしま村。貞和六年(一三五〇)一〇月日の宇佐盛基申状(秋吉文書)に上野村(北条泰家跡)がみえるが、あるいはこの村のことであろうか。元禄豊前国高帳では上植野村の高三五三石余、下植野村の高一〇一石余と分けて記され、以後の郷帳類でも同様である。安永八年(一七七九)一一月に「植野村藤四郎と申者、於居村、近頃濁り酒造専売シ候由、承及申候、左候得者、私共酒造商売ニ差閊、甚難渋仕候」と酒屋株仲間から差止願が出されている(惣町大帳)

植野村
うえのむら

[現在地名]南国市植野

久礼田くれだ村の西に位置し、西は国分こくぶ川の支流領石りようせき川が南流、南は平野が開ける。「土佐州郡志」に「東限久礼田村、西南限龍石境、北接山、縦横四町許、(中略)其土蒼黒」とみえ、北と東は山が迫るため、馬之子谷・西之谷・柳之谷・枕谷・北之谷・小谷・大谷などの谷や岩窟・岩穴のあることを記す。領石川沿いを南北に土佐街道(北街道)が通る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報