梶浦(読み)かじうら

日本歴史地名大系 「梶浦」の解説

梶浦
かじうら

[現在地名]山陽町大字郡

厚狭川の河口部で、瀬戸内海に面した末益すえます村に属する漁村。天文四年(一五三五)の惣社八幡宮文書(「寺社証文」所収)に、梶浦の北にある小名鳥切とりきりの位置説明として「吉部田加治トヲキヘ(沖部)トノ間也」とあり「加治」と記す。下津しもづ村農家小兵衛家文書(「注進案」所収)に、

<資料は省略されています>

とあり、永禄九年(一五六六)にはすでに梶浦の地名があったことがわかる。

慶長五年(一六〇〇)検地帳では「梶浦」として高二四石余、うち田方五段余、畠方三町九段余、物成一九石余とあり、同一五年の検地帳では「末益村 梶浦」と記され、浦屋敷二〇ヵ所、四反余、米一四石余。

梶浦
かじうら

[現在地名]三国町梶

さき浦の東にあり、岩石海岸入江に位置する。古くは奈良興福寺領の坪江つぼえ庄下郷に属し、室町時代中期以前の記録と思われる「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)に「梶浦」がみえる。同記録によれば、田畑五町二反半、在家名二〇があった。また嘉元四年(一三〇六)「関東御免津軽船」の一艘が崎浦に入津した際、三国湊や三ヶ浦の住人が難破船と偽って船や積荷を略奪したが、その中には「加持羅(梶浦)太郎」も加わっていた(大乗院文書「雑々引付」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報