梅屋町(読み)うめやちよう

日本歴史地名大系 「梅屋町」の解説

梅屋町
うめやちよう

[現在地名]静岡市梅屋町・人宿町ひとやどちよう二丁目・本通ほんとおり四丁目

東の上石かみごく町二丁目から続く城下横筋(横町)第七行の両側町。縦筋(縦町)第六行の一角も占める。東海道は縦筋第六行の人宿町三丁目を北に向かい、当町中央で西に折れて新通しんとおり一丁目に続く(以上、町方絵図、新版「静岡市史」)横七間よこしちけん町ともいい(駿河記)、「駿河志料」に「寛永三年御上洛御宿割帳に、人宿町梅屋とあり、この頃までは、人宿町と唱へしなり」とある。

梅屋町
うめやちよう

中京区丸太町通新町西入

東西に通る丸太町まるたまち(旧春日小路)を挟む両側町。町の東側を新町しんまち(旧町尻小路)、西側を西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)、中央を釜座かまんざ通が南北に通る。

平安京条坊では町の北側は左京二条三坊一保一町の南、南側は同二町の北にあたる。平安中期以降は春日町尻小路の西にあたる。また町の南側は平安京の官衙町「神祇官町」の地にあたる(拾芥抄)

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には「春日町北西頬、左衛門九郎」の名がみえる。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図では「梅屋町」とし、筆描図系の絵図では以降変化はない。

梅屋町
うめやちよう

上京区武者小路烏丸西入

町の南寄りを東西に武者小路むしやこうじ通が通り、東は烏丸からすま通。天正以前にいぬ辻子ずしといわれ、東武者小路ともいわれた(坊目誌)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「東武者小路」、寛永一八年以前平安城町並図には「むめや丁」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「梅や町」、元禄九年(一六九六)京大絵図には「さくらや丁」、元禄末期洛中絵図には「東武者小路梅や丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「東武者小路 一名梅屋町」と記される。

梅屋町
うめやちよう

中京区車屋町通御池下ル

南北に通る車屋町くるまやちよう通を挟む両側町で、町の北半分はほぼ現御池おいけ通が通る。

平安京の条坊では、左京三条三坊三保一四町の中央にあたる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「梅屋丁」とあり、それ以降変化なく、木版図系では寛永一八年以前平安城町並図に「つきぬけ」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図で「車や丁ノつきぬけ」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「車屋丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「梅屋丁」と記す。

梅屋町
うめやちよう

中京区麩屋町通蛸薬師下ル

南北に通る麩屋町ふやちよう通を挟む両側町。町の南側は錦小路にしきこうじ通に面する。

平安京の条坊では、町の西側は左京四条四坊三保一一町の東側、同東側は同保一四町西側の地。平安中期以降は錦富小路の東北にあたる。

町名については、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「梅や町」、「都すゞめ案内者」で「むめや町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「梅屋町」とし、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報