柳谷村(読み)やなぎたにむら

日本歴史地名大系 「柳谷村」の解説

柳谷村
やなぎたにむら

[現在地名]川西市柳谷・清和台西せいわだいにし・けやきざか

芋生いもう村の北、猪名いな川の支流である柳谷川の流域に位置する。昔柳が多く自生し、当地平野ひらの神社の神体は柳の太刀と伝える。

〔中世〕

多田ただ庄のうち。正和三年(一三一四)七月日の惣社九月九日御祭頭料足注文案(多田神社文書、以下断りのない限り同文書)に「あつものゝくわんれん一頭分」を負担する地として「やなきたにのたいはんにやてん」がみえる。嘉暦三年(一三二八)には政所沙弥某が「多田郷柳谷真光名」田一反(一斗五升代)を関東祈祷のため平野社の灯油田として寄進している(同年一一月一九日政所沙弥某寄進状)。貞治五年(一三六六)には僧教慈が多田院に「多田庄ノ内柳谷ナカレタ」の田六〇歩などを忌日田として寄進している(同年七月二九日教慈寄進状)

柳谷村
やないたにむら

[現在地名]美里村三郷みさと

きようヶ峰(八一九・三メートル)南麓の四方を山に囲まれた村。新開しんがい村の北、穴倉あなくら村の南西にあたる。山地の多い村で、わずかばかりの平地に集落がある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「六百三拾三石七斗五升 新開・柳谷」と出るが、これは栗原くりばら村が村切される前の村高を含むと考えられる。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「柳谷村」として田方一五一石余、畑方三八石余とある。江戸時代を通じて津藩領。

寛延(一七四八―五一)頃の戸数二八、ほかに郷士一、人口一一八、馬一、牛一三。神祠に松尾・春日、寺院に西念さいねん(真宗高田派)梅林ばいりん(天台真盛宗、古くは真言宗)があった(宗国史)

柳谷村
やなぎだにむら

[現在地名]北区八多町柳谷はたちようやなぎだに藤原台南町ふじわらだいみなみまち一丁目・同三―五丁目・藤原台中町ふじわらだいなかまち五丁目・同七丁目

附物つくもの村の東にある有馬ありま郡の村。八多川支流の柳谷川が地内を流れる。慶長国絵図に柳谷村とみえ、高三八一石余とされるが、このなかには東隣吉尾よしお村分も含むとみられ、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では吉尾・柳谷二村の高を三八一石余とし、丹波福知山藩有馬豊氏領とする。当村は天正一〇年(一五八二)山崎堅家(片家)(藩屏年表)、慶長六年(一六〇一)三田藩有馬則頼領となり、翌七年則頼の子の豊氏に引継がれ、元和六年まで同領。

柳谷村
やなぎだにむら

[現在地名]熊野市神川かみかわ町柳谷

長原ながはら村の北、北山川の支流柳谷川の中ほどにある。小名碇谷いかりご(碇郷)は村の東南の別の川筋にあり、またその南の別谷に奥地おくじがある。文明三年(一四七一)の旦那売券(米良文書)に「北山之やない谷」の地名がみえる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「柳谷村」と記される。江戸時代初期北山組に属する。寛永一六年(一六三九)から元禄四年(一六九一)にかけての新田畑検地帳の写が伝わり、元禄一〇年・享保六年(一七二一)にも新田検地が行われた(「奥熊野柳谷村新田検地帳」徳川林政史蔵など)

柳谷村
やないだにむら

[現在地名]松山市柳谷町やないだにまち

松山市域の東北端に近い山村。高縄たかなわ山塊の西南部にあたり、三〇〇―五〇〇メートルの山地が連亘し、高原状を呈する。人家渓谷に沿ってわずかに存在し、大部分草原山林に覆われている。東は恩地おんじ村、西はふもと(現北条市)、南は城山じようのやま村、北は牛谷うしだに(現北条市)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「柳谷村 林少有、芝山有」とある。

古代において、いずれの郡・郷に属していたかは不明である。

柳谷村
やなだにむら

面積:一二六・一〇平方キロ

上浮穴郡東南部、高知県境にあり、くろ川が山地を開析して標高二五五メートルから一五六二メートルの高峻な地形を作りつつ、北から流れて来た面河おもご川に合する。面河川沿いに国道三三号が通じ、集落は山腹のわずかな平地を選んで立地し、これを結ぶ村内の道は古来往還とよばれてきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報