林丘寺(読み)リンキュウジ

デジタル大辞泉 「林丘寺」の意味・読み・例文・類語

りんきゅう‐じ〔リンキウ‐〕【林丘寺】

京都市左京区にある単立宗教法人もと臨済宗天竜寺派)の尼寺山号は、聖明山。修学院離宮の正殿楽只軒らくしけんを寺とし、後水尾天皇皇女光子内親王が出家して入寺したのが始まり。歴代宸翰しんかん高僧墨跡が多く残っている。音羽御所

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精選版 日本国語大辞典 「林丘寺」の意味・読み・例文・類語

りんきゅう‐じ リンキウ‥【林丘寺】

京都市左京区修学院林ノ脇にある臨済系単立尼寺。山号は聖明山。延宝八年(一六八〇)後水尾法皇の遺勅創立開山は照山元瑤(朱宮光子内親王)。代々皇女が入寺する尼門跡の一つ。書院方丈楽只軒(らくしけん)は明治一七年(一八八四)修学院離宮編入

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日本歴史地名大系 「林丘寺」の解説

林丘寺
りんきゆうじ

[現在地名]左京区修学院林ノ脇

修学院しゆがくいん離宮中の茶屋の東に接する。聖明山と号する単立(臨済系)の尼門跡寺。寺の前身は後水尾天皇の第八皇女朱宮光子内親王の朱宮あけのみや御所(音羽御所)で、「无上法院殿御日記」寛文一〇年(一六七〇)三月二二日条に「あけの宮の山(荘)あり」の記事がみえる。朱宮は父後水尾院より別殿を賜って楽只らくし軒と称したが、延宝八年(一六八〇)院の没後落飾。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林丘寺」の意味・わかりやすい解説

林丘寺
りんきゅうじ

京都市左京区修学院(しゅうがくいん)林ノ脇(はやしのわき)にある単立宗教法人の尼寺。もと臨済(りんざい)宗天竜寺派に属した。山号は聖明山。俗に音羽御所(おとわごしょ)ともいう。もと後水尾(ごみずのお)天皇の修学院離宮の正殿で、楽只軒(らくしけん)と号した。1680年(延宝8)天皇が崩御され、遺勅により仏寺となり、皇女朱宮光子(あけみやこうこ)内親王が出家して照山元瑤(しょうざんげんよう)と名を改め、翌年当寺の住持となった。その後3世まで皇女の入住があったが、桃園(ももぞの)天皇の皇女博山(はくさん)尼を最後に寺主は置かれなかった。江戸時代には朱印300石を領して比丘尼(びくに)御所としての格式を保持し、明治維新の際に、一時男僧寺院とされたが、まもなく尼寺に復した。1884年(明治17)寺地の約半分を宮内省に返上。旧寺地の客殿、楽只軒などは現在修学院離宮の茶屋となっている。古来林泉の美をもって知られ、寺宝に紙本墨書林丘寺御手鑑(みてかがみ)(重文)などを蔵する。

[平井俊榮]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林丘寺」の意味・わかりやすい解説

林丘寺
りんきゅうじ

京都市左京区修学院にある尼寺。聖明山と号する。もとは臨済宗天竜寺派に属していたが,現在は単立宗教法人。後水尾天皇 (在位 1611~29) と皇女のために修学院離宮の中の茶屋を仏寺としたもので,代々皇女が入寺した。明治維新後に一部を離宮に返した。美しい庭園で有名であり,御手鑑 (1冊) などを所蔵している。

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世界大百科事典(旧版)内の林丘寺の言及

【修学院離宮】より

…1655年(明暦1)着工され,上皇みずからの構想のもと,59年(万治2)に下の御茶屋,2年後の61年(寛文1)に上の御茶屋の大池ができ,上皇は理想の山荘を完成させた。ただし中の御茶屋は1884年に林丘寺境内の約半分が離宮に編入されたものである。 下の御茶屋は山荘利用の拠点で,寿月観(じゆげつかん)(上皇の御座所)を中心とする諸建築が建ち並び,これに面して小滝からの遣水(やりみず)がめぐって下方の池にそそぐ,小ぢんまりとした庭が作られた。…

※「林丘寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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