東田面村(読み)ひがしたなぼむら

日本歴史地名大系 「東田面村」の解説

東田面村
ひがしたなぼむら

[現在地名]粕川上東田面かみひがしたなぼ下東田面しもひがしたなぼ

粕川左岸、一日市ひといち村の北にあり、北西方に前皆戸まえがいと村を挟む形で西田面村がある。建武元年(一三三四)一一月二七日の大田貞宗寄進状(鎌倉市中央図書館蔵)にみえる山上やまかみ保内田部村」は田面のことか。寛文郷帳では田面村一村で高付されており、田方三六七石余・畑方一六四石余、前橋藩領。元禄郷帳では二村に分れ、東田面村となる。高四三九石余、同藩領。寛政二年(一七九〇)の条目写(恩田文書)によれば、一日市村とともに奥州泉藩領となっている。条目は遅滞なく納税することを命じるとともに様々な統制事項を記し、また何事によらず非儀をいわない、博奕などすべて賭勝負ごとはいけないなど、「村々大小百姓亡却無之様、毎月為読聞可」と申渡し、念を入れている。江戸後期の御改革組合村高帳では館林藩と奥州泉藩領の二給。天保九年(一八三八)の東田面ほか桐生出市商人預け糸・絹不法処分についての訴状(根岸文書)によると、東田面村の百姓佐源次ほか六人が桐生新町きりゆうしんまち(現桐生市)の金七など三人を相手に訴え出ている。

東田面村
ひがしたづらむら

[現在地名]会津若松市湊町みなとまち平潟ひらがた

猪苗代湖西岸にあり、西ははら村、南は経沢へざわ村、北は崎川さきかわ村。本村の南西三〇町に端村堰場せきばがある。田連とも書く。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」には源義家の伝説の手綱より村名が起こると説く。康暦二年(一三八〇)三月九日の蘆名詮盛寄進状案(新編会津風土記)によれば、「大会津東田連内阿弥陀堂」が実相じつそう寺に寄進され、その得分六貫一〇〇文のうち一貫文は阿弥陀堂分とされた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の大沼郡に村名がみえ、高六八八石余。原組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一千六七石余。化政期の家数は本村四三・堰場一八(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数六三(寺一)・人数三六三(人員録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報