東島村(読み)ひがしじまむら

日本歴史地名大系 「東島村」の解説

東島村
ひがしじまむら

[現在地名]岐阜市東島・島新町しましんまち

近島ごんのしま村の南に位置し、南端は長良川に沿う。集落は北部にかたまり、南に支郷島田しまだがある。一帯は天正年間(一五七三―九二)までしままたは倉居島くらいじまと称された(阿願寺文書)。文禄二年(一五九三)の豊臣秀吉朱印状写(来迎寺文書)によれば、東島村のうち五〇〇石が織田秀信の母に与えられている。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高五四四石余で奥平忠隆(加納藩)領。正保郷帳では高五五四石余で畑方のみ。宝暦五年(一七五五)幕府領、安永四年(一七七五)大垣藩預所となり幕末に至る(岐阜県史)。文化五年(一八〇八)早田そうでん村・池之上いけのうえ村と両村の南にあたる当村の間で漏水・降溜水など悪水をめぐっての争論が内済した(「内済証文」北川文書)

東島村
ひがしじまむら

[現在地名]安田町東島

安田村の北東、安田川東岸に位置し、北は中山なかやま郷の内京坊ないきようぼう村、対岸は西にししま村、東は山地を隔てて田野たの(現田野町)に接する。広い沖積平野を占め、古くからの農業地帯で、大木戸おおきど古墳群・法禅ほうぜん寺跡、安田庄の地頭惟宗(安田)氏の安田城跡などがあり、古代・中世にわたり安田川流域の政治・文化の中心地であった。

天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳では「城南村」とあり、不動ふどう大野おおの台地など江戸時代に安田村とされる地域を含んでおり、その総地高は五二町五反余とある。

東島村
ひがしじまむら

[現在地名]各務原市蘇原東島町そはらひがしじまちよう蘇原和合町そはらわごうちよう蘇原東栄町そはらとうえいちよう蘇原中央町そはらちゆうおうちようなど

東西に延びる各務かかみ山の西端丘陵地と西流するさかい川との間に位置し、村内東部を東島池から北流するあと川が流れる。各務郡に属し、北は境川を隔てて東門とうもん村、南と西は野口のぐち村。溜池と境川の水利によって灌漑を行う。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野口村野帳(安積文書)に「東嶋」とみえる。

東島村
ひがしじまむら

[現在地名]新津市東島

新津丘陵西側の台地に位置し、西は西島にしじま村、南は古津ふるつ村。直江兼続被官河村彦左衛門から新津丹波守に宛てた年不詳の知行所之一札(「高志路」所収)に村名がみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に一一〇石四斗七升とあり、同一〇年の給知方村々高目録(同書)には毛付一三八石六斗余、荒一六石六斗余と記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)によれば、六斗五升の炉役が四軒に課されている。正保国絵図には八二石余とあり、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)には家数二二・人数一二一とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報