来海庄(読み)きまちのしよう

日本歴史地名大系 「来海庄」の解説

来海庄
きまちのしよう

来待きまち川流域の現来待地域にあった天皇家領庄園。のち室町幕府の御料所となる。安元二年(一一七六)二月日の八条院所領目録(山科家文書)出雲国来海とみえ、美福門院の御願寺として永治元年(一一四一)に創建された歓喜光かんぎこう(現京都市左京区)の所領の一つであった。当庄の成立は明らかでないが、出雲国衙の在庁官人など在地の有力者が古代の意宇おう拝志はやし郷の一部を開発し天皇家に寄進、改めて庄園として立券されたもので、成立の時期は一一世紀前半頃のことと思われる。成立期の在地領主は庄園の下司などに任じられ、また鎌倉期には地頭にも任じられたと推測されるが、承久の乱で京方(後鳥羽上皇方)に荷担して没落してしまったのであろう。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳写(出雲国造系譜考)の二番には「来海庄 別府左衛門妻」と記されている。地頭別府左衛門妻とは東国御家人成田氏から別府氏に嫁いだ女性のことと推定され、この前後を通じて来海庄の地頭は西遷武士成田氏であった。それは藤原(成田)満資が新しく武蔵国成田なりた(現埼玉県熊谷市など)から移り住んだこの来海地域における支配の拠点、かつ出雲成田氏の一族結合の中心(氏寺)として弘長三年(一二六三)に建立された時宗寺院弘長こうちよう寺の同年一二月一五日の縁起(弘長寺旧蔵文書)のなかで「当庄代々地頭守此縁起之面、時務僧衆諸共、且加小破於修理、且可致大破於建立、万代不朽勿令退転」と述べていること、あるいは三刀屋家に伝来した文書目録(三刀屋文書)に念まれる成田氏関係文書に、北条義時などから「雲州来海庄并武蔵国成田之庄之地頭職安堵之御下文等」を与えられたと記されているところからもうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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