杉野村(読み)すぎのむら

日本歴史地名大系 「杉野村」の解説

杉野村
すぎのむら

[現在地名]木之本町杉野

河合かわい村の北、杉野谷中央に位置する山村。地内を杉野川が南西流する。現余呉よご町との境には横山よこやま岳・墓谷はかたに山などの高山が連なる。杉野川に沿い北東へは金居原かねいはら村を経て久加くが(八草越)で美濃国へ至り、西へは枝郷杉野下村から丹生にゆう峠越で下丹生(現余呉町)への道が通る。横山岳は古代山岳信仰の地で、白山修験道の影響がみられる。現木之本浄信きのもとじようしん寺蔵の木造地蔵菩薩立像の像内納入木札墨書銘によれば、仁治三年(一二四二)八月二四日に同像を補修、同年一〇月彩色、曾木は「中庄椙野郷百姓等施入之」とみえる。嘉暦四年(一三二九)四月一一日の田数所当米注文(上田文書)に「中庄椙野□□□(郷内重カ)清名」がみえる。

杉野村
すぎのむら

[現在地名]池田町杉野

砂畑すなばた村の北、揖斐川右岸に立地。杉野河岸があった。近世は長く対岸の大野郡公郷くごう(現大野町)の枝郷で、明治大学刑事博物館本元禄郷帳には公郷村の内、古くは赤池あかいけ村と称したと記される。杉野村と改称したのは天和三年(一六八三)という。天保郷帳に記載がなく、旧高旧領取調帳では高一六六石余とみえ、旗本加藤平内領になっている。幕末に分村独立したものか。明治元年(一八六八)の村明細帳によれば家数二三・人数二三四、米・麦・大豆・菜種などを産し、農間余業に揖斐川舟運の船稼をする者がかなりいたほか、大工・屋根葺・黒鍬(普請人夫)・商いをする者もいた。文政三年(一八二〇)八月旗本加藤氏知行所内の百姓たちが当村の庄屋と同弟の両住宅を、年貢誅求の役人近藤十郎左衛門に内通しているとして打毀を行った(「趣意書綴」戸田文書)

杉野村
すぎのむら

[現在地名]倉吉市杉野

沢谷さわだに村の西、北谷きただに川左岸の段丘上に位置する。南西は悴谷かせだに村。杉村とも記した。集落背後の尾根上を通る道は大山詣旅人が利用した道といわれ、大山遥拝の灯籠も残っている。拝領高は二四七石余、本免は五ツ七分。倉吉組士鷲見氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二七〇石、竈数二〇余、村内に小森大明神を祀る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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