杉村(読み)すぎむら

精選版 日本国語大辞典 「杉村」の意味・読み・例文・類語

すぎむら【杉村】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「杉村」の意味・読み・例文・類語

すぎむら【杉村】

姓氏の一。
[補説]「杉村」姓の人物
杉村楚人冠すぎむらそじんかん
杉村春子すぎむらはるこ

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日本歴史地名大系 「杉村」の解説

杉村
すぎむら

[現在地名]春野町杉

篠原しのはら村の東、ほぼ西流する気田けた川支流杉川中流域の両河岸および山手の尾根・山腹に広く散在する。河岸には気田子けたこかみしま西川にしがわ居寄いより門島かどしま久原ひさはらいけしま神田じんで平城ひらじよういちしま上瀬居かみせい・下瀬居、左岸の山腹には行師平ぎようしだいら小板こいた、右岸の尾根から山腹に杉嶺すぎみね高杉たかすぎなどの集落があり、それらを統合するかたちで杉村が成立している(慶長九年「検地帳」本多家文書)

杉村
すぎむら

[現在地名]亀岡市あさひ町 杉

八木やぎ(現船井郡八木町)より神吉かみよし(現八木町)に至る道に沿って集落を形成し、北は三俣みまた川を隔てて印地いじ村、東は美濃田みのだ村、南は池尻いけじり村と屋賀やが(現八木町)、西は青戸あおと(現八木町)。村は集落も含めほとんど平地ばかりである。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によると篠山藩領四〇石・旗本津田美濃守知行地三八〇石の入組地で、戸数四五、「四方上田にして所産五穀上品也、綿等作其外諸色何も吉」という。

村の南に光徳こうとく(曹洞宗)がある。寺伝によると、もと東方の千年ちとせ山頂にあり岩平がんぺい寺と称したが、応永二二年(一四一五)僧賀屋により現在地に移され、伽藍も完備し、将軍足利義晴が寺領を寄進したという。

杉村
すぎむら

[現在地名]枚方市杉一―四丁目・杉〈責谷せめだに一丁目・きた町一丁目・山手やまて一―三丁目〉・杉・長尾台ながおだい三丁目・氷室台ひむろだい一丁目

交野かたの郡に属し、生駒山地の西部延長部にあたる津田つだ山中の渓間に位置する。中央を穂谷ほたに川が西に流れ、北は藤坂ふじさか村、南は津田村・尊延寺そんえんじ村。「日本紀略」天長八年(八三一)八月二〇日条に「山城河内両国各加置氷室三宇、供御闕乏也」とみえ、このとき河内国に増置された氷室の一つが当地に置かれたと伝える。「大阪府全志」はその跡を山城国との境の字下の谷とするが、遺構はない。永禄二年(一五五九)八月二〇日付交野郡五ケ郷惣侍中連名帳(三之宮神社文書)に「杉村」とみえる。中世末、津田郷とその周辺を領有した津田氏が三好長慶に属して本領を安堵され、永禄年間に当村を開発したという(「津田郷土史」松村家文書)

杉村
すぎむら

[現在地名]会津坂下町船杉ふなすぎ

西は丘陵山地に接する山麓にあり、北は塔寺とうでら村、東は坂下村、南は船窪ふなくぼ村。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「杉村僧饌四膳」とある。「塔寺長帳」によれば、永正一五年(一五一八)塔寺村や当村などと朝立あさだち村との間で入会山の相論があったが、黒川くろかわ(現会津若松市)の蘆名氏の裁定があり、翌年これに対して「きたすきニきしやうあり、此時すき、ふなくほ、ひる川、くり村の物共人数にてかき候」と杉村などが起請している。

杉村
すぎむら

[現在地名]平舘村石浜いしはま 舟岡ふなおか

東は陸奥湾に臨み、南は二ッ谷ふたっや村、西は清水股しみずまた岳の支脈を隔てて小国おぐに(現蟹田町)、北は今津いまづ村に接する。住民の姓に越田・金沢が多く、藩政期に加賀・越前から移住したと伝える。貞享四年(一六八七)検地帳石浜村(現蟹田町)の耕地の所在地に「舟岡」がみられ、当時から字名として存在し、後に杉村となっていたが、明治二二年(一八八九)の町村制施行の時、再び舟岡となったと考えられる。

天明八年(一七八八)菅江真澄の「外が浜つたひ」に「二ツ屋、杉の浦に至る」とみえ、「錦の浜」では「こは秋もはや深泊ふかとまりあまの屋のひとつ二屋杉ふたつやすぎ今津いまつく」と詠んでいる。

杉村
すぎむら

[現在地名]北区杉村・杉村町・杉栄すぎさかえ町・中杉なかすぎ町・西杉にしすぎ町・大杉おおすぎ・大杉町・東大杉ひがしおおすぎ町・豆園まめその町・城東じようとう町・生駒いこま町・水切みずきり町・長田ちようだ町・清水しみず

東を大曾根おおぞね村と接する。名古屋城の東北で、春日井郡と名古屋町方の境にあった。村名の起りについて「金鱗九十九之塵」は、むかし片山神社の境内に大樹の杉があったが、立枯れとなったので、その枝葉をこの辺りの氏子の村々へ配ったからであると記している。

杉村
すぎむら

[現在地名]篠山市杉

大沢おおざわ村の北東に位置し、どろ(田松川)が流れる。もと大沢村のうち。坂戸さかど(大沢村)の大庄屋であった杉本八右衛門武礼は、延宝四年(一六七六)増水で諸所が沼沢状態になるとして住吉すみよし川を北方の大川(篠山川)に導く新川(安田川)を開削する工事を行い、干拓地化することに成功した。これは藩命によるもので、郡奉行・監察・代官ら篠山藩側からも工事関係者が出たが、藩主は杉本の功をたたえ、杉本村とするよう許されたが、遠慮して杉村にしたという(「大沢村々由緒書」杉本家文書)。「丹波志」に大沢庄のうちとして「杉」とみえ、高三一六石余のうち坂戸村高一一三石余・味間新あじましん村高一三八石余・中野なかの村高六四石余で、元禄八年(一六九五)これらの合併により成立したという。

杉村
すぎむら

[現在地名]那珂町杉

棚倉たなぐら街道上町うわまち通が村の西側を縦貫する。北は横堀よこぼり村・南酒出みなみさかいで村。明応年間(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)に「すき をのさき下野三郎違乱」とみえ、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「杉」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「杉村」とみえる。「水府志料」によると戸数およそ七八。杉村では三〇〇年前より杉苗を栽培し山村地帯へ供給していたと伝えられるが、鉄道の発達とともに全国的に販売するようになり、隣接の横堀・菅谷すがやにも栽培が拡張された。

杉村
すぎむら

[現在地名]浪岡町しろがね 杉田すぎた

浪岡川の下流右岸にあり、北は樽沢たるさわ村、南は銀村に接する。

「永禄日記」の元亀四年(一五七三)二月に「杉白銀」とある。「青森県租税誌」では宝永元年(一七〇四)杉村より銀村が分村とあるが、「吉野田八幡宮神官長利家系譜・椙羽太路」では杉村を銀村の派立としている。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に村とあり、高三五七・三七石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に村高七八五・八二五石、うち田方六九町五反四畝九歩、七〇三・二四九石、畑方一八町三反二畝六歩、八二・五七六石とある。元禄三年(一六九〇)には増館組に属し、村位は下(平山日記)

杉村
すぎむら

[現在地名]奥津町杉

西屋にしや村・はこ村の吉井川東対岸にあり、北は井坂いざか村、南は河内こうち村。正保郷帳に高一四八石余、うち田方一〇八石余・畑方四〇石余とある。「作陽誌」では家数三〇・人数一六四。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高五四石余・開高二七石余。領主の変遷は長藤ながとう村と同じ。枝村の坂手小原さかてこばら分は、文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では坂手原さかてはら分とみえ、本村高二〇一石余・坂手原分二八石余。

杉村
すぎむら

[現在地名]山鹿市杉

日輪寺にちりんじ山の南麓に位置し、西部を岩野いわの川が南流、北は寺島てらじま村、南は熊入くまいり村・いし村と接する。「国誌」所載の菊池持朝が裏書をする永享六年(一四三四)一二月二一日の日輪禅寺建立次第によると、杉村一円は日輪寺に寄進されている。天文一二年(一五四三)一〇月一六日の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「 一所 六町」とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田四二町二反余・畠屋敷一六町四反余・屋敷筆数三四、分米六一〇石三斗余。近世は山鹿手永に属する。正保郷帳の高も同じであるが、「国誌」には杉村と下杉村が記され、杉村は高三三二石三斗余、「里俗上杉村ト云、小峯村境村等ノ小村有リ」とし、下杉村は高三一一石五斗余とある。

杉村
すぎむら

[現在地名]矢部町杉木すぎき

東は梅木うめぎ村、北西は金内かねうち村に接する。千滝せんたき川が南流し、下流は寺川口てらかわぐち村に続く。杉集落の北側、東・西・南の三方を千滝川に囲まれた丘陵上(比高約六〇メートル)寺尾てらお城跡がある。はまの館の防衛拠点で、阿蘇家家臣が交替で在番した(国誌)。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「すき」とあり、貫高は二八貫五〇〇文。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に属したが、のち旧に復した。

杉村
すぎむら

[現在地名]大豊町杉

北流する穴内あなない川の西岸にあり、川を挟んで東は中村大王なかむらだいおう村。「土佐州郡志」は「在小川村東」と記す。本山もとやま郷内の一村。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳には「杉名」とみえ、検地面積三町九反一九代五歩(四歩の誤りか)、うち田分二町四反二九代二歩、畠分二反二五代三歩、屋敷数一六で一町二反一四代五歩。公事分と名本分からなる。また同年の本山郷高山切畑地検帳によれば二筆一反に小麦が作られている。

元禄地払帳では総地高六三石余、うち本田高三九石余、新田高二四石余。

杉村
すぎむら

[現在地名]多賀町杉

八重練やえねり村から東へ杉坂を登った山間の村。南東に高室たかむろ山がある。西の八重練村、北の桃原もばら村、南の佐目さめ村、四手しで村と四方から山道が通じる。多賀大社の神木を守る人々の子孫と伝える。寛永石高帳に高一八石余とある。

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