木杆可汗(読み)もくかんかがん(英語表記)Mu-gan Ke-han; Mu-kank`o-han

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木杆可汗」の意味・わかりやすい解説

木杆可汗
もくかんかがん
Mu-gan Ke-han; Mu-kank`o-han

[生]?
[没]572
突厥第3代のカガン (在位 553~572) 。伊利可汗の子。 553年に兄の科羅 (乙息記可汗) を継いで即位柔然の 鄧叔子を討ってこれを完全に滅ぼし,さらに契丹キルギスを破り本拠地をウトゥケン山に移し,突厥隆盛の基を築いた。当時中国北部にあった北斉,北周両王朝の争いを利用し,双方に対して関係をもち厚幣をむさぼった。

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世界大百科事典(旧版)内の木杆可汗の言及

【突厥】より

…アルタイ山脈の南西麓にいた阿史那氏の族長土門(チュメンTümän)はジュンガリアの鉄勒諸部を服属させたのち,552年に柔然を倒して伊利(イルリグIllig)可汗(ブミンBumïn可汗)と称し,モンゴリアの遊牧騎馬民を統合する一方,弟の室点蜜(しつてんみつ)(イステミIstämi可汗,ビザンティン史料のシルジブロスSilziboulosまたはディザブロスDizaboulos)は,エフタルを滅ぼして(567)ソグディアナを手中にし,天山山脈中のユルドゥズ渓谷を本拠とする西面可汗として中央アジアを掌握した。土門の子,木杆(ムカン)可汗のとき柔然を滅亡させ(555),ついで吐谷渾(とよくこん),契丹,キルギスを併せ,ユチュケン山を本拠として発展をとげた。オアシス地帯と東西通商ルートを抑えた西面可汗の勢力にくらべると,モンゴリアの突厥は大可汗のほかに小可汗が分立し不安定であった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」