智頭宿(読み)ちずしゆく

日本歴史地名大系 「智頭宿」の解説

智頭宿
ちずしゆく

[現在地名]智頭町智頭

現智頭町のほぼ中央部、北西流する千代川土師はじ川・新見にいみ川が合流する地点から千代川上流にかけてを占める。同川右岸沿いに智頭街道が走り、当地で備前街道(津山往来・土師谷往来)が分岐する。江戸時代には智頭街道の宿村で、在郷町としても郡有数であった。地名は古代以来の所属郡名と同じで、その由来は、道を表す「ち」と「あたま・はじめ」を表す「ず」が組合さったもので、都から因幡国府(現国府町)に向かう官道が当国に入って最初に通過する郡という意味であろうと考えられている。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保国絵図正保郷帳には智頭町と載せたが元禄国絵図・元禄郷帳作成にあたり智頭宿に改めたとある。当地一帯は早くから開発が進んだらしく、字段山だんやま弥生土器・石槍・土師器須恵器が出土。また黒本谷くろもとだに古墳からは圭頭大刀や銅鋺などが出土した。このほか横穴式石室をもつ会下谷えげだに古墳もある。平安時代には当地辺りに智頭郡家や智頭駅家(道俣駅)が置かれていたと考えられ、承徳三年(一〇九九)平時範が因幡国府に下向したとき、智頭駅家で境迎えの宴が催されている(→志戸坂峠。また「因幡志」によれば、天正年間(一五七三―九二)の初め頃関所が設けられ、毛利氏の兵が通過する人の改めをしたことに由来する関屋せきやという地名がある。

寛永九年(一六三二)宿駅として再整備され、また千代川舟運・筏流しの基地として筏師の賃金が一人につき一日七分と定められた(在方御定)。同一〇年の大庄屋給帳(県立博物館蔵)によると智頭町庄屋喜右衛門が用瀬もちがせ(現用瀬町)の五郎兵衛とともに智頭郡大庄屋を勤めている。給米は八俵。藩政初期、当地には横目(代官)が配されており、承応二年(一六五三)には蔵米地払値段や代銀の取扱などに関する通達が出されている(在方御定)。また同年の駒帰こまがえり番所への藩の申渡しによれば、智頭代官は同番所を指揮して大雪・山崩れの際には道明けをすることや、他国からの走百姓があったときには同番所より報告を受け鳥取に届けるよう命じられている。また駒帰御茶屋が破損し容易に修繕できないときには同番所から届出を受けることになっていた(在方御法度)。のちこの制度は改変され、享保(一七一六―三六)頃には目付が配されていた。目付は大庄屋の指揮下にある「五人者」を使う権限を与えられていた。同三年当地の「五人者」は五人は不必要との理由で三人に減じられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報