星山村(読み)ほしやまむら

日本歴史地名大系 「星山村」の解説

星山村
ほしやまむら

[現在地名]富士宮市星山

黒田くろだ宮黒田みやくろだ両村の南、貫戸ぬくど村の西、富士川北岸の星山丘陵に立地する。地内の星山谷(現星山放水路)は古代の潤井うるい川流路と考えられて、星山谷両岸につき遺跡群がある。「延喜式」神名帳の富士郡三座のうちに比定される倭文しどり神社がある。天文元年(一五三二)一一月二七日の今川氏輝判物(大宮司富士家文書)に「星山」とみえ、代官職が富士宮若(富士山本宮浅間大社の社家)に安堵されている。当地は今川氏の直轄領で、富士宮若は今川氏の御馬廻衆であった。永禄一二年(一五六九)一二月一七日、北条氏政は同年七月武田氏に制圧されて没落した今川氏支援のために出兵し、大宮おおみや城を奪還したならば富士浅間社(富士山本宮浅間大社)大宮司富士兵部少輔信忠に星山を含む一四ヵ所を与えると約束している(「今川氏政判物」同文書)

星山村
ほしやまむら

[現在地名]紫波町星山

北上川左岸の平坦地と、東方の山間丘陵地を占める。南は大巻おおまき村、東は遠山とおやま村、西は北上川を隔て桜町さくらまち村、北は犬吠森いぬほえもり村。寛永一八年(一六四一)の高六七五石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)正保国絵図に村名がみえ、高三三八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高七四六石余、七ヵ年平均の免四ツ六分九厘七毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方六九五石余・畑方五四石余。元文三年(一七三八)の給人書上によると岩間杢の知行地があった。延享三年(一七四六)の巡見使通行付返答覚書(玉根文書)によれば、高七四九石余・免四ツ七分、家数四〇・人数一六〇、馬一一〇。

星山村
ほしやまむら

[現在地名]勝山町星山

神庭かんば川の上流に位置し、星山(一〇三〇・三メートル)の南麓の高原の村。周辺は六〇〇メートル級の高原地帯。南は竹原たけばら村、神庭の滝を経て神庭村、東は高原続きの菅谷すがたに村。見尾みお村から西に大杉おおすぎ川に沿い菅谷村、当村を経て神庭川をさかのぼり、三谷みたに山の東麓から黒田くろだ(現美甘村)に至る古道がある。道沿いには中世の石塔群があり、後醍醐天皇の隠岐配流のとき利用された道という伝承がある。正保郷帳に村名がみえ、田高八石余・畑高二六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高七石余・開高三石余。「作陽誌」では家数一二・人数五〇。領主変遷は神庭村と同じ。

星山村
ほしやまむら

[現在地名]かつらぎ町星山

星川ほしかわ村の南にあり、中世、高野山領六箇七ろつかしち郷内四村よむらに属した。延元三年(一三三八)閏七月一六日の成真田地売券(五坊寂静院文書)に「六箇御庄内星山村字赤左鼻」とみえる。「続風土記」は星川村とともに四村の本村とし、「当村八幡宮の南一町許山の原に星岩といふあり、大さ方六尺許、村名星の墜たるより名つく」と記す。江戸時代は高野山学侶領に属し、「続風土記」は村高六一石余、家数二八、人数一一〇、社寺として弁財天社・八幡宮、常福じようふく(高野山真言宗)を記し、常福寺境内の八幡社には文明二年(一四七〇)銘の鰐口があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android