明恵上人神谷遺跡(読み)みようえしようにんかみたにいせき

日本歴史地名大系 「明恵上人神谷遺跡」の解説

明恵上人神谷遺跡
みようえしようにんかみたにいせき

[現在地名]吉町船坂

わしヶ峰山腹にあり、明恵紀州遺跡八所の一。また国指定史跡の明恵紀州遺跡率都婆の一。建長五年(一二五三)三月に書写された明恵上人紀州所々遺跡注文(施無畏寺文書)は「神谷後峰」をあげ、「右建仁末比、上人親属等、依勅勘、被下関東之刻、住此処、石垣・田殿両庄之間、有一山寺、称神谷、其後峰、登十四五町、有高峰、号鷲峰、卜此麓、立草舎、修大仏頂法、其下去一町許、構片羽かたは」と記す。また上山本「高山寺明恵上人行状」には元久元年(一二〇四)二月のこととして、「文(覚)上人又蒙宣旨、癈流対馬国、為彼難大明神被示仰也、在田一郡地頭職悉以違乱、併馳下関東了、(中略)其後一郡不安堵之間移住神谷山寺名也」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報