日立鉱山(読み)ヒタチコウザン

デジタル大辞泉 「日立鉱山」の意味・読み・例文・類語

ひたち‐こうざん〔‐クワウザン〕【日立鉱山】

日立市中部の銅鉱山。天正年間(1573~1592)の発見と伝えられ、明治38年(1905)から大規模に開発、金・銀も産出した。日本四大銅山の一に数えられたが、昭和56年(1981)閉山

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精選版 日本国語大辞典 「日立鉱山」の意味・読み・例文・類語

ひたち‐こうざん ‥クヮウザン【日立鉱山】

茨城県日立市宮田町にあったわが国有数の銅鉱山。天正年間(一五七三‐九二)発見。金・銀・銅・亜鉛を産出。明治三四年(一九〇一赤沢銅山と称し、同三八年久原房之助が買収して改称。昭和五六年(一九八一)閉山。

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改訂新版 世界大百科事典 「日立鉱山」の意味・わかりやすい解説

日立鉱山 (ひたちこうざん)

茨城県の日立市にある銅鉱山。鉱床は日立古生層の角セン片岩,黒雲母石英片岩,白雲母石英片岩,変輝緑岩などの変成岩累層中に層状ないしレンズ状に存在する含銅硫化鉄鉱床。高鈴,赤沢,本坑,神峯,中盛,藤見,入四間などの鉱体が走向延長3km以上,傾斜延長1km以上,最大厚さ80mにわたって連続し,ほかに不動滝,諏訪などの鉱体もある。鉱石鉱物黄銅鉱,セン亜鉛鉱,黄鉄鉱,磁硫鉄鉱であるが,平均的な銅品位は比較的低く1.5%程度であり,硫黄品位は20%程度であった。
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古くは赤沢銅山と称され,日本の四大銅山の一つであった。1591年(天正19)に発見され,常陸領主佐竹義重が開発したと伝えられるが,水戸藩政下,明治前・中期を通じてなん度か稼行されながらも,悪水問題(鉱毒水による田畑の汚染)などのために発展をみることがなかった。1905年藤田組の小坂鉱山所長であった久原(くはら)房之助が買収し,日立鉱山と改称。久原は大規模な自家発電により坑内外の電化を行って開発に成功するが,07年早くも鉱山の〈死活を決する〉煙害問題が発生し,関右馬允(せきうめのじよう)を指導者とする近隣農民の煙害反対運動に直面した。試行錯誤の末,14年,当時としては世界一の高さを誇る155.7mの煙突(おばけ煙突)を建設し,危機を乗り切った。日本で最初の高煙突拡散方式である。久原は1912年久原鉱業所を株式会社に改組し,経営の近代化を図った。第1次大戦の好況期,自山産出鉱,他山からの買鉱のいずれも増加し,16年には従業員数7500人,産銅量1万3800tを記録した。しかしその後の銅市況の低迷と鉱況の悪化によって経営不振に陥り,28年久原は社長を辞任し,義兄鮎川(あいかわ)義介が引き継いだ。鮎川は同年持株会社として日本産業(株)を設立,翌29年には日本鉱業(株)を発足させた。32年から数年間金の売上げが銅を上回ったが,第2次大戦中の43年には産銅高が1万6300tに達した。戦火による鉱山施設の被害は甚大であったが,戦後復興政策に支えられ,48年には戦前の生産水準を回復した。70年代に入って鉱況が急速に悪化したため,73年10月日本鉱業の100%出資子会社(資本金1億円)として分離され,日立鉱山(株)となったが,81年9月末に76年間の歴史に終止符を打ち,閉山した。坑道延長690km余,産出した粗鉱量は3400万t,銅量で44万tに上った。この間1910年にモーターなど電動機器の修理を担当していた工作課が,小平浪平の提案で久原鉱業所日立製作所として分離し,20年には(株)日立製作所として独立した。日立鉱山はこのように戦前の日産コンツェルン,今日の日鉱グループ,日立グループの母体であり,発展の原動力をなしたのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日立鉱山」の意味・わかりやすい解説

日立鉱山
ひたちこうざん

茨城県北東部、日立市にあった銅山。多賀(たが)山地の変成岩中の含銅硫化鉄鉱床より金、銀、銅、亜鉛などを採掘した。神峰(かみね)山の南側一帯は古くから赤沢(あかさわ)山とよばれ、佐竹氏時代より金、銀、銅を産した。江戸時代にも銅鉱が採掘され、悪水被害(公害)の記録もある。1862年(文久2)銅鉱2000貫を産したが、1864年(元治1)水戸藩内の党争にあって施設は焼失した。その後も経営者は変遷したが1905年(明治38)に久原房之助(くはらふさのすけ)が久原鉱業所日立鉱山として操業を開始した。採掘から製錬、電錬までの工程を一貫化し、水力発電所、電車鉄道など近代的多角経営によって発展、さらに大煙突(高さ155.7メートル)で煙害を防止し、硫酸工場設置による副産物製造も行った。ほかに電機メーカー日立製作所が分離、独立するなど日立市の近代鉱工業発展の源泉となった。宮田川の谷は工場と鉱山集落で占められ、分水嶺(ぶんすいれい)を越えて里(さと)川の谷まで繁栄を及ぼした。1965年(昭和40)の生産額は一部の小鉱山も含めて金鉱151キログラム、銀鉱1443キログラム、銅鉱6120トン、硫化鉱23万トンを産した。しかし、貿易の自由化、銅資源の枯渇によって1976年から製錬をやめ、1981年に閉山。わずかに電錬工場を残している。1985年、鉱山跡地に日鉱記念館が建てられた。

[櫻井明俊]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日立鉱山」の意味・わかりやすい解説

日立鉱山
ひたちこうざん

茨城県日立市の西部にあった日本鉱業系の日立鉱山経営の鉱山。天正年間 (1573~92) に発見され,初め赤沢鉱山と称した。 1905年久原房之助が日立鉱山として開発し,のち日本鉱業が大規模な開発を行い,73年日立鉱山として独立した。鉱床は結晶片岩を母岩とする層状含銅硫化鉄鉱床で多数の鉱脈から成り,充填式上下向き階段掘りによる坑内採掘をしていたが 81年9月閉山した。開山以来の粗鉱量は 3000万tといわれている。精鉱は日立市大雄院 (だいおういん) にある日本鉱業日立製錬所で製錬し,銅,金,銀その他の非鉄金属類を生産していた。大正初期に亜硫酸ガスによる煙害問題が発生し,その対策として 25年に当時日本最高の煙突 (155.7m) が建設され,排煙の空中拡散がはかられた。

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世界大百科事典(旧版)内の日立鉱山の言及

【公害】より

…古河財閥と政府は,被害農民の反対運動を権力によって弾圧した。これに対して,別子銅山と日立鉱山の事件は製錬所の亜硫酸ガスによる大気汚染事件である。これらの事件では長期にわたる農民の反対運動が繰り返された結果,企業は公害対策をせざるをえず,今日の公害対策を考えるための主要な原則が確立したという点で重要である。…

【日立鉱山】より

…1591年(天正19)に発見され,常陸領主佐竹義重が開発したと伝えられるが,水戸藩政下,明治前・中期を通じてなん度か稼行されながらも,悪水問題(鉱毒水による田畑の汚染)などのために発展をみることがなかった。1905年藤田組の小坂鉱山所長であった久原(くはら)房之助が買収し,日立鉱山と改称。久原は大規模な自家発電により坑内外の電化を行って開発に成功するが,07年早くも鉱山の〈死活を決する〉煙害問題が発生し,関右馬允(せきうめのじよう)を指導者とする近隣農民の煙害反対運動に直面した。…

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