新張村(読み)みはりむら

日本歴史地名大系 「新張村」の解説

新張村
みはりむら

[現在地名]東部町大字新張

小県郡の東部、烏帽子えぼし岳・まる山等の南山麓にある。東は原口はらぐち村、南は別府べつぷ村、西は鞍掛くらかけ村、北は禰津東ねつひがし町及び上野国吾妻あがつま田代たしろ大笹おおささ(現群馬県吾妻郡嬬恋つまこい村)二村と諸岳をもって境をなす。古くは楢原ならばら(現奈良原)・古屋敷・窪在家くぼざいけ等の地籍に民戸があったが、今の地に移り一村をなしたと伝える(長野県町村誌)

天正一〇年(一五八二)禰津定津じようしん院住持玄忠が入寂し、門弟欣隆が継ぐにあたり「元亀間、草創於信州新張村宗伝寺、住十余年」とあるのが初見(正徳三年「信州臨川山定津禅院年表」定津院蔵)

新張村
にいばりむら

[現在地名]丹生川村新張

北は小八賀こはちが川を挟んで下保しもぼ村・細越ほそごえ村に対し、東は町方まちかた村。集落東端で同川に山口谷やまくちだに川が合流、さらに集落の北部大萱谷おおがやだに川を合せてほぼ西流する。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえ、高四〇七石余、田三四三石余・畑六四石余、物成高一二二石余。同一八年郷帳では「にいはり村」として四四二石余。元禄検地反歩帳の高四三〇石余、田三二町八反余・畑一〇町六反余。「飛騨国中案内」によれば免は四割七分一毛、家数四九、うち百姓四三・門屋六。寛政一二年(一八〇〇)の高四〇三石余、反別田三二町八反余・畑一〇町六反余、家数五〇・人数三三〇、牛馬二六、威鉄砲一(村明細帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報