敷地村(読み)しきじむら

日本歴史地名大系 「敷地村」の解説

敷地村
しきじむら

[現在地名]加賀市大聖寺敷地だいしようじしきじ大聖寺天神下町だいしようじてんじんしたまち

菅生すごう村の北方、大聖寺川北岸に位置し、北陸街道沿いに集落を形成。地名は菅生石部すごういそべ神社の鎮座地(敷地)に由来するという(加賀志徴)。中世は京都北野社領福田ふくだ庄のうち。元来は菅生に含まれる地域で、南北朝期から大聖寺川以北は敷地の呼称が用いられるようになった。正和五年(一三一六)二月日の地頭代祐光申状(大乗院文書)によると狩野忠茂が「菅生敷地々頭」であった。建武二年(一三三五)八月、中先代の乱に呼応して加賀を南下した越中の名越時兼は「大聖寺ト云所ニテ、敷地(中略)ノ者共ガ僅ノ勢ニ打負テ」討死している(「太平記」巻一三)。当地を本拠としたのは福田庄菅浪すがなみ郷地頭職とともに菅生社神主職を継承した狩野氏の一族敷地氏で、南北朝内乱の初期には南朝方に属したが、観応の擾乱では足利尊氏側にくみし(観応三年五月二二日「足利尊氏感状」狩野文書)、南北朝末期より室町期を通じて幕府奉公衆として活動する(同文書)。戦国期には日野政資の被官で福田庄の領家方代官となった敷地彦右衛門尉が同庄を違乱しており(北野社家引付)、天文一四年(一五四五)には「敷地天神之神主」敷地某が知行地(福田庄か)のことで幕府に提訴し、奉公衆狩野孫三郎との中分案が検討されたものの狩野は同意せず、結局敷地が敗訴している(言継卿記)。応永二〇年(一四一三)一一月二日の富墓庄預所筑前守知職寄進状(菅生石部神社文書)に「敷地方至者 東限僧坊地 南限湖上 西限承仕畠 北限天神馬場」とみえるが、この範囲を以後もそのまま敷地と呼称したか否かは検討を要する。

敷地村
しきじむら

[現在地名]吉舎町敷地

現吉舎町の西北端に位置し、北は三良坂みらさか(現三良坂町)。北西部を馬洗ばせん川が流れ、その支流片野かたの川が村の西側を北流する。集落はこの両河川の流域に点在する。近世の文書には「舗地」の字をあてるものも多い。文献上では、一五世紀半ばまでには成立していたとみられる隣村吉舎村の大慈だいじ寺の開山宗綱の「宗綱語録」に「本州三谷郡敷地郷片野村居住 藤原行安長男円寂」とみえる。近世には片野は敷地村に含まれる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では村高九三四・四一七石。寛文一一年(一六七一)とその翌年にかけて藩が行った検地では九四四石余であるが、文政二年(一八一九)の毛付高は八七五石余(国郡志下調書出帳)。なおこの年の小物成銀は一八一匁一分七厘で、内訳は家役五九匁、綿役二匁六分五厘、茶役五匁七分八厘、山役四匁五分、竹代二八匁四厘、諸鳥運上一〇匁、灰運上一匁四分、雉子札五匁、大工二人・木挽一人・桶屋二人の水役銀六四匁八分とある。台地状の地にある当村は、水田の六割が溜池灌漑に依存し、前掲書出帳は三谿みたに郡郡夫の援助を受けて造成した木伝寺きでんじ池をはじめ五五ヵ所の溜池をあげている。

敷地村
しきじむら

[現在地名]豊岡村敷地

敷地川の中流右岸に位置し、北は大平おおだいら村。文明一二年(一四八〇)八月に一雲いちうん斎で授戒会が行われたが、これに敷地の平大夫・左近太郎・弥三郎・右近次郎らが参加していたとある(「血脈衆」乾坤院蔵)。永禄六年(一五六三)に今川氏真が二俣ふたまた(現天竜市)の城主松井貞宗に安堵した所領のなかに敷地村がみえる(同年一〇月二一日「今川氏真判物写」土佐国蠧簡集残篇)。その後松井氏は武田氏に降ったため、元亀三年(一五七二)に武田晴信(信玄)が松井宗恒に安堵した所領のなかにも敷地で一五〇貫とされている(同年一二月一六日「武田晴信判物写」同残編)

検地は慶長五年(一六〇〇)・同九年・寛文八年(一六六八)・延宝五年(一六七七)に行われた(慶長五年「検地帳」伊藤家文書・慶長九年「敷地村検地帳」松野家文書、寛文八年「池田之庄敷地村検地帳」・延宝五年「敷地村検地帳」乗松家文書)

敷地村
しきじむら

[現在地名]小野市敷地町

王子おうじ村の北、加古川左岸の河岸段丘面に位置する。中世は奈良東大寺領大部おおべ庄の推定庄域のほぼ西端中央に位置した。地形的には沖積平野から標高約三〇メートルの段丘面と五〇メートルの段丘面に立地し、前者のほうが開発が古い。現敷地町内には三二の小字がある(播磨国大部荘現況調査報告書)。暦応三年(一三四〇)六月二〇日の大部庄雑掌僧尭賢申状(東大寺文書)によると、同日未刻に守護使と号する者が多数を率いて預所敷地右近尉の住宅に乱入し米などを奪取している。永享六年(一四三四)八月日の大部庄公文恒清・伊王名夏地子納帳(同文書)には敷地の石丸・右近がみえ、同一二年一〇月日の大部庄公事物帳(同文書)には「シキ地」の右近ら一〇人の名がみえる。

敷地村
しきじむら

[現在地名]中村市敷地

なか村の北、うしろ川と岩田いわだ川の合流地点にある村で、式地(後述の地検帳)・鋪地(寛保郷帳)とも記す。「土佐州郡志」は「東限後川、南限利岡村、西北接山、東西二町余南北二十二町余、戸凡七十三」と記す。

地名は正安二年(一三〇〇)一一月日付左大将一条内実家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「敷地村拾斛」とみえる。これは金剛福こんごうふく(現土佐清水市)の供養奉加官米負担を命じられたもので、これに関連する同月一五日付某家袖判御教書(金剛福寺文書)には「敷地村分拾石本斗任政所御下文之旨、守先規為臨時徴下、今年中必数無懈怠沙汰、渡院主快慶可令取置請取之由所被仰下也」とある。

敷地村
しきじむら

[現在地名]徳島市国府町敷地こくふちようしきじ

桜間さくらま村の南にあり、東は池尻いけじり村、南は観音寺かんのんじ村、西は名西みようざい市楽いちらく(現石井町)。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井番水定書(坂東家文書)に敷地村とみえる。当村では中世以来下羅井したらい用水によって水田耕作が行われていたとみられ、同定書によれば番水は二番・一〇時と決められていた。慶長二年(一五九七)の分限帳では一三六石余が樋口分右衛門、一六四石余が今田四郎右衛門の知行分。うち樋口分の一三〇石余・百姓五人は慶長三年五月二二日蜂須賀彦次郎に加増された。

敷地村
しきじむら

[現在地名]鴨島町敷地

飯尾いのお村の西に位置する。村の南部は高越こうつ山系の山地で、南はひがし山の枝村である樋山地ひやまじ村、西は山田やまだ(現川島町)。樋山地村から流れ出た唐谷からだに川は北流を続けて当村を貫流し、村の北辺で流れを直角に変えて東流に転じ、飯尾川となる。慶長二年(一五九七)の分限帳では樋口内蔵助知行分のうちに敷地高四七九石余がみえる。正保国絵図では高四七三石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では旱損、芝山との注記があり、田高三一三石余・畠高一五九石余。

敷地村
しきじむら

[現在地名]那賀川町敷地・豊香野ゆたかの

小延このぶ村の南に位置する。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には「しきぢ」とみえる。正保国絵図には敷地村とあり、高一四八石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一二三石余・畑方二四石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二二三石余。「阿波志」によると水陸田六町二反余、高二二二石はすべて采地。

敷地村
しきじむら

[現在地名]竜洋町豊岡とよおか

掛塚かけつか輪中の北東部に位置し、西は内名うちみよう村。敷知とも記す(元和五年池田川西代官所高帳)。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に敷地とあり高一〇七石余。松平忠頼領郷村帳に敷知村とみえ高三九石余、田九反余・畑六町一反余、新田二石・畑四反、ほかに養安寺領四石余・八幡領四石余。

敷地村
しきじむら

[現在地名]静岡市敷地一―二丁目・高松たかまつ

下島しもじま村の東に位置したとみられる。安倍あべ向敷地むこうしきじ村に対して浜敷地村ともいう(修訂駿河国新風土記)。高松村から分村したとの説があり(駿河記)、同村・宮竹みやたけ村とともに高松三ヶ村と称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報