揖屋庄(読み)いやのしよう

日本歴史地名大系 「揖屋庄」の解説

揖屋庄
いやのしよう

現東出雲町中部に所在した庄園。「和名抄」の意宇おう筑陽つきや郷が再編成されて揖屋郷と意東いとう郷に分れ、前者寄進されて成立したと推定される。平安時代末と推定される成勝寺年中相折帳(書陵部所蔵祈雨法御書裏文書)によると、藤原資憲が崇徳天皇の御願寺成勝じようしよう(現京都市左京区)に寄進、年貢は莚五〇枚であった。永万二年(一一六六)三月八日の後白河院庁下文案(吉田黙氏所蔵文書)によると、成勝寺領揖屋社は天養二年(一一四五)に立券されたが、まもなく出雲国衙が庄園の一方の境界を示す示を抜取ったため、領家であった勘解由次官資憲入道が庄官を率いて示石を元どおりに復元した。資憲は崇徳天皇の側近で、保元の乱で敗れたのち出家している(尊卑分脈)

承安二年(一一七二)九月一六日、大宅助澄は父助宗から譲られた別火職を安堵され(「某補任状写」井上家文書)、建久一〇年(一一九九)四月には資澄(助澄)から宗澄への揖屋社別火上官職の譲与が安堵されている(「某政所下文」同文書)。これらはいずれも領家ないしは本家が安堵したものであるが、寛元元年(一二四三)四月二九日には地頭安東左衛門尉が父宗澄から為澄への杵築五社別火職の相続を安堵している(「地頭左衛門尉藤原某補任状」同文書)安東氏東国御家人で、文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の三番に「揖屋庄三十一丁安東宮内左衛門尉」とあるのも同一人物と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報