揖宿郡五ヶ名(読み)いぶすきぐんごかみよう

日本歴史地名大系 「揖宿郡五ヶ名」の解説

揖宿郡五ヶ名
いぶすきぐんごかみよう

室町時代の揖宿郡にあった五つの名。応永一六年(一四〇九)二月一八日の指宿忠合譲状(旧記雑録)によると、忠合の子息頼忠に「指宿郡五ケ名」が譲られている。五つの名についての具体的な記載はないが、中世史料にみえる秋富あきとみ名・秋久あきひさ(原田名)秋次あきつぎ名および秋益あきます名・秋満あきみつ名と考えられる。後者の二名は比定地未詳だが、中世揖宿郡の郡域の大部分が現指宿市にあたることから、五名とも指宿市域にあったと考えられる。

〔秋富名〕

文暦二年(一二三五)八月二八日の関東下知状(指宿文書)によると、指宿忠秀跡の揖宿郡内「九所大明神宮司秋富名田畠名主職等」を、忠秀の子忠成と養子重秀(忠秀の甥)が半分ずつ領知するよう鎌倉幕府が命じている。これは忠秀と地頭島津忠綱が支配権をめぐって争った際、忠秀が忠綱の代官に殺害されたため、子の忠成は訴訟によって所職を回復、地頭忠綱を解任させたが、次に忠成と重秀との間に遺領の相続争いが生じたことによる。なお同下知状にみえる秋富名については、秋益名と判読できるとの指摘がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報