手島村(読み)てしまむら

日本歴史地名大系 「手島村」の解説

手島村
てしまむら

[現在地名]頸城村手島

並木なみき道の東に位置し、東に矢住やずみ村、南に日根津ひねづ村、西に上増田かみますだ新田、北に西野島にしのしま(現吉川町)がある。天文九年(一五四〇)六月一八日の長尾景重宛行状(歴代古案)に「ひた森の郷手島」とみえ松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)の砦を夜襲により奪還した板屋藤九郎に、手島と町田まちだ(現吉川町)のうちから一二〇貫文の地を給与している。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には、大沼沢地のほとりに「御料所柿崎分宮嶋与八郎分手嶋村 上」が描かれ、本納三四七石一斗八升・縄高三三四石七斗、家二五軒・六五人とある。

手島村
てしまむら

[現在地名]那賀川町手島

八幡やわた村の南東に位置する。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には「てしま」とみえる。正保国絵図には手島村とあり、高二九七石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方二二〇石余・畑方七七石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四一一石余。「阿波志」によれば高四〇〇石の四分の三が采地

手島村
てしまむら

[現在地名]大里村手島

荒川右岸の沖積扇状地扇端部に位置し、東は小泉こいずみ村、西は村岡むらおか(現熊谷市)、南は中恩田なかおんだ村。熊谷往還脇道が通る。「風土記稿」によれば、かつては村岡村万吉まげち(現熊谷市)北東に集落をなしていたが、荒川の洪水による欠崩れのため現在地に移ったという。中世には田島あるいは豊島と称されたとされ、恩田御厨内田島たじま郷に比定される。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に、譜代侍として永楽三千貫文の豊島美作守長朝がみえ、現妻沼めぬま歓喜かんぎ院の天文二一年(一五五二)銘棟札には手島美作守高吉の名がみえるが(武蔵史料銘記集)、手島氏(豊島氏)は当村を名字の地とし、高吉は長朝の父という(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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