忽那義範(読み)くつなよしのり

精選版 日本国語大辞典 「忽那義範」の意味・読み・例文・類語

くつな‐よしのり【忽那義範】

南北朝時代武将伊予忽那島(愛媛県松山市)神浦城主。重義の子。南朝に仕え、征西将軍懐良親王の九州上陸を忽那島に迎え、幕府軍と戦った。生没年未詳。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「忽那義範」の解説

忽那義範

生年:生没年不詳
鎌倉・南北朝時代の武将。重義の子。通称下野法眼,下野房。南北朝の動乱のなか一貫して南朝方の立場を堅持し,瀬戸内海における南朝勢力の中心をなした。特に後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州へ下る途中,忽那島に立ち寄った際には3年にわたって保護し,伊予国(愛媛県)の河野氏や安芸国(広島県)の武田氏から一行を守った。親王の九州渡海時には熊野水軍と共に支援し,以後忽那島は,吉野朝廷と九州の征西府を中継する役割を果たすことになった。また義範は,持ち前の水軍力を駆使して讃岐国(香川県)塩飽諸島,備後国鞆(広島県福山市)など内海各地にも進出している。<参考文献>景浦勉『忽那家文書』

(山内譲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「忽那義範」の解説

忽那義範 くつな-よしのり

?-? 南北朝時代の武将。
忽那重義の子。忽那重清の弟。伊予(いよ)(愛媛県)忽那諸島本拠とする水軍。南朝方に属す。暦応(りゃくおう)2=延元4年(1339)から3年間島に滞在した懐良(かねよし)親王を援助した。のち備後(びんご),周防(すおう)で地頭職(しき)をあたえられた。通称は下野(しもつけ)法眼。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の忽那義範の言及

【伊予国】より

…河野氏は惣領家の通盛が北朝方にくみしたのに対し,庶家の土居・得能氏が南朝方として活動した。また忽那氏では庶家忽那義範が南朝方に属してめざましい活躍を示した。彼は一貫して南朝支持の立場を堅持し,懐良親王の忽那島(現,温泉郡中島町)下向の際にはその護衛に任じ,さらに海上機動力を駆使して瀬戸内海の各地に転戦した。…

【瀬戸内海】より

…阿波の伊島や淡路の沼島に拠った安宅(あたぎ∥あたか)氏,阿波の舞子島,野々島の四宮氏,小豆島の飽浦(あくら)氏,佐々木氏,塩飽(しわく)諸島の塩飽氏,伊予の能島(のしま),来島(くるしま)と備後因島(いんのしま)の三島村上氏,伊予の忽那七島の忽那氏などは南朝方海上勢力であった。なかでも征西将軍宮懐良(かねよし)親王の九州下向に当たり,忽那義範は1339年(延元4∥暦応2)これを忽那本島の館に迎え,その3ヵ年の滞在中,伊予の南軍の勢いは大いに振るった。しかし,やがてまず四国東部は武家方の細川氏が制し,中国路においても63年(正平18∥貞治2)ころから大内弘世や山名時氏が幕府方に降って南朝勢力は急速に衰え,最後まで細川氏に対抗した伊予の河野氏もやがて幕府に降り,瀬戸内の南北朝内乱は終りを告げた。…

※「忽那義範」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」