志高村(読み)しだかむら

日本歴史地名大系 「志高村」の解説

志高村
しだかむら

[現在地名]舞鶴市字志高

由良川が現舞鶴市内で東流から北流へと流路を変える地点の左岸に位置し、自然堤防によって囲まれた堆積平野耕地としている村である。

古代「和名抄」に記す志託したか郷に属したと考えられている。志託の名の由来について、京都白川家に伝来したと称する「丹後風土記」残欠は、志託郷を説明して

<資料は省略されています>

地名説話を記す。

志託郷にはのち志高庄が立荘される。すなわち広隆寺縁起に「今上皇帝有勅、永於当寺、勤修上件法会、故毎四時至今修焉、今上皇女御、以丹後国志高庄、而為薬師如来燃燈之料也」とあって、村上天皇の女御から薬師如来の燃灯料として広隆こうりゆう(現京都市右京区)に寄進された。

志高村
しだかむら

[現在地名]山田町志高

古内ふるうち村の南、黒部くろべ川上流域に位置する。現長南ちようなん地引の妙覚じひきのみようかく寺が所蔵する応安七年(一三七四)九月二四日銘の田部たべ地蔵堂鰐口に「下総国松沢庄志高村」とみえ、当村住人九名が檀那として寄進している。これより先、元亨二年(一三二二)一二月一五日の上代郷年貢結解状案(金沢文庫文書)に国納定の籾五八石余のうち二三石余の「新高」は当地と考えられ、また三五石の黒部は地内の黒部が遺称地と思われるが、確証がない。慶長一五年(一六一〇)長岡ながおか浅間せんげん大明神(現稲葉山神社)の本社建立の際、寄進村の一として当村も名を連ねている(稲葉山神社蔵棟札)。寛永八年(一六三一)から貞享(一六八四―八八)頃までに旗本山田・内藤・山角・松平・牛奥の各氏が当村の内で知行地を与えられたと思われ(寛政重修諸家譜)、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも同じ旗本五氏領で、高三二五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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